国葬モヤモヤ

国葬を目前に控え、国中がモヤモヤ状態だ。
このまま当日を迎えて良いのだろうか。
誰もがそんな思いを抱いているように思える。
今にして思えば、今回の国葬が提起されたのは随分前のことに思える。
その後、崩御されたエリザベス女王の国葬は、すでにつつがなく、いや世界が見守る中荘厳に執り行われた。
否が応でも、誰もが二つの国葬を比較して、問いかけてしまう。
こんな国葬を、本当にやって良いのだろうか。

だが僕は今日、国葬の是非を論じたい訳ではない。
気になるのは、この議論の「埒があかない」こと。
さらに言えば、この「埒があかない」議論ばかりがあちこちで繰り返されているように思えてならない。
辞書によれば、「埒があかない」とは、「物事が解決しない、決着がつかない、話にならない」ことを指す。
確かに安倍元首相の周りには、そんな話で満ち溢れている。
殺害の原因と言われる統一教会のこと。
経済政策の功績と言われるアベノミクスのこと。
他にも、公文書の改ざん、金まみれのオリンピック、原発の廃炉処理、軍備増強など、いくらでも思いつく。
少なくとも、安部元首相の死が国葬に値するかどうかをその功罪で判断するなど、簡単にできるわけがない。

話を戻そう。
今日の課題は、国葬に対する僕のモヤモヤ感であり、それが僕だけでなく多くの人が持つ感情だということだ。
そこでまず、自身のモヤモヤ感の正体を具体的に突き止めたい。
すでに27日に向けて準備が進められ、恐らく予定通りに実施されるだろう。
このことについて僕自身どう思うのかと問えば、答えは「ま、仕方ない」という感じ。
もしも僕が岸田首相の親友なら、「お前、今からでも遅くない、国葬は中止しろ」と言えるかもしれない。
そしてもし、本気で止めたいのなら「もし中止しなければ、お前とは絶交だ」など、勝手に処罰すればいい。
だが僕は、それを言えずにモヤモヤしているわけではない。
もう少し自分の思いに分け入ってみよう。

実施しても良いが、その内容に不満があるのか。
報道を見ていると、主な反対理由はその方法や内容だ。
国葬と名乗ること、国会に諮らず閣議だけで決めたこと、全額国費で賄うこと、国民に弔意を求めること、などなど。
だが、これらの背景にはさらに多くの議論があり、準備が進む実施方法の是非を論じることも果てしない気がする。
ましてや、僕自身「こういう葬儀にするべきだ」という腹案がある訳では、決してない。
つまり、僕のモヤモヤは、葬儀のやり方に関する感情とは思えない。

そこで僕は、エリザベス女王の葬儀を参考に考えることにした。
その理由は、こうしたモヤモヤをあまり感じなかったから。
このモヤモヤ感は、常に感じるわけではないので、感じる時と感じない時を比較してみよう。
まず、女王の葬儀は他所の国の他人事なので、客観かつ冷静に見ている自分を感じる。
それに対し、今回の国葬モヤモヤは、完全に当事者意識が生み出す感情に思えてきた。
僕の感じる当事者意識は、これが英国でなく日本であること、つまり「国葬」という言葉に対する感情であることは明らかだ。
よく考えてみれば、女王の葬儀は僕にとっての国葬ではない。
いやむしろ、英国を支配する大のお婆ちゃんであり、その葬儀だから国葬と呼ぶにすぎないだけ。
恐らく、日本でも天皇の葬儀であればあえて「国葬」などと呼ぶ必要も無く、誰もモヤモヤ感じないだろう。

振り返ってみれば、今回の国葬論議は、安部元首相の殺害に際し世界各国から弔意が示されたことに、端を発している。
僕たち国民から見ても、安部元首相が「不慮の死を遂げたこと」に異論はない。
だからこそ、外交儀礼も含め、海外からの弔問に答えるため、国家としての葬儀を行いたいという思いに僕はモヤモヤしない。
考えてみると、岸田首相や自民党関係者が連呼する葬儀の名称は「国葬」でなく「国葬儀」という言葉だ。
つまり、当初から岸田首相が目論むイベントに過ぎなかったはずの「国葬儀」が、どこかでボタンを掛け違えて「国葬」に変化して暴走してしまった。
そう考えると僕のモヤモヤは吹き飛んで、晴れ晴れとした気分になる。
だったらそう言えばいいだけのこと、「丁寧な説明」と言いながら、全然説明になっていないことこそが、モヤモヤの正体ではなかろうか。