エリザベスお婆ちゃんが亡くなった。
そう、もちろん先日崩御なさったエリザベス2世(エリザベスにせい、Elizabeth the Second、1926年4月21日 – 2022年9月8日)のこと。
イギリスのウィンザー朝第4代女王(在位: 1952年2月6日 – 2022年9月8日 )として、即位から崩御するまで、イギリスの他14か国の英連邦王国及び王室属領・海外領土の君主、またイングランド国教会の首長であった。
ある意味で、世界に衝撃をもたらしたこのニュースに接した時、僕の心に浮かんだのは「お婆ちゃん」という言葉だった。
間違いなく世界を代表する高貴なお方に対し、なぜ僕は「エリザベスお婆ちゃん」などと馴れ馴れしい表現を用いるのか、今日はそんな話をしてみたい。
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初めに僕の思いをもう少し丁寧に説明しよう。
「お婆ちゃん」とはもちろん老婆を意味するが、ここではむしろ「祖母」を意味している。
もちろん僕は、英国人でもなければ、英国王室のメンバーでもない。
だが、エリザベス女王に対する感情の多くが、自分の祖母に対する孫の感情に近しいものだと僕は感じる。
少なくとも僕が臣下として使える主君では無いし、僕を客として招いてくれる女将では無い。
他国の君主はたくさん知っているが、こうした親しみを覚える方は思い当たらないし、ましてや僕を客としてもてなしてくれる王族など思い当たらない。
主従関係でもなく、主客関係でもない君主に対し、感じる親しみとは何なのか。
それは、同じ何かに所属するという広義の「家族」に他ならない。
もちろん僕の片思いだが、僕はエリザベス女王を頂く大きな家族の一員だからこそ、「お婆ちゃん」という言葉が浮かぶ「孫的な自分」を感じている。
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それではなぜ、こんな話をしたいと思ったのか。
それは、この思いが僕一人で無く多くの人たちからも感じられるから。
日本にある英国大使館前に花を手向ける人々の感覚は、僕とあまり変わらないのではないだろうか。
英国全土で弔意を示す人々だって、決して女王の家臣でもなければ客でもない。
サッカーのスター選手だったデビッド・ベッカム氏が、女王のひつぎが公開されているロンドン市内のウエストミンスター・ホールへと続く一般弔問の列に、喪服姿で並んでいるのが目撃された。
空いてると思って深夜2時に来たのに、すでに老若男女の長蛇の列があったが、同じ思いの人たちと食べたり飲んだり話したりと、12時間以上も共にできたことを喜んでいたという。
かつて勲章を授与された感謝の気持ちは特別かも知れないが、誰もがお婆ちゃんに対して持つ「褒めてくれた喜び」と「お別れの悲しみ」は共通なのかもしれない。
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すでに統治権は持たないが、長年にわたって王室外交を展開し、英国に身を捧げたと称賛される。
賞賛という言葉にするなら、確かにそうなるのかもしれない。
だが、世界に広がる弔意の思いは、この賞賛に基づくものではないと思う。
戦争、ダイアナ妃、コロナ、そしてヘンリー王子など、様々な問題は有るものの、一言で言えば「愛すべきお婆ちゃんだった」ことこそが、世界の大勢を動かしている。
多数の支持を得ることで評価される政治家でなく、多額の収益を得ることで評価される実業家でなく、一心に家族の幸福を願うお婆ちゃんだからこそ、誰もが王室について、まるで家族のことのように賛否を論じ合うのではないだろうか。
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僕が「地主の学校」を着想した時、初めに浮かんだイメージがエリザベスお婆ちゃんのしかめ面だった。
これはもちろん、女王が世界有数の大地主であることに起因する。
だが、僕は決して王様になりたい訳じゃない。
むしろ、しかめ面になったお婆ちゃんの顔にこそ、家族の課題に心を痛める「地主の本性」が見えてくる。
ここで言う「家族」とは、土地や家を共有し、継承していく仲間を指す。
残念ながら今の世界は、平和を愛し、誰とでも親しくし続けることをできていない。
エリザベスお婆ちゃんの死は、このことを僕たちに突き付けている。
いま世界が求めているのは、政治でも経済でもなく、「婆ちゃんの笑顔」ではないだろうか。