嬬恋+キャベツ

8/8(月)~10(水)の3日間、カミさんと一緒に群馬県の「嬬恋(つまごい)村」を訪問した。
昨年(一社)ワンフォーワンを設立した友人Sさんが、「嬬恋村」に所有する別荘を拠点に活動を始めたところ、大いに盛り上がっただけでなく村役場の方たちともすっかり親しくなったという。
そこで先月、この訪問を願い出たところ、即座に快諾していただいたのだが、そのころはまだ「北軽(きたかる)の別荘」と呼んでいて、僕も何の疑問も持っていなかった。
ところがその後、「北軽」の呼び名は「嬬恋」に変更になり、別荘の住所は「群馬県吾妻郡嬬恋村」で、訪問先も「嬬恋村役場」と判明した。
これを聞いたカミさんは、「え、つま恋?、静岡の?」と問い返してきた。
これに対し、不覚にもきちんと答えられなかった僕が、その後「嬬恋」について学び直したことは言うまでもない。

まず、「嬬恋村」は「北軽井沢」ではないし、もちろん「静岡のつま恋」でもない。
「軽井沢」は長野県の東端に位置する軽井沢町を中心とする地域の総称で、「北軽井沢」は群馬県に含まれる。
その上、群馬県の西端に位置する「嬬恋村」の東に隣接する長野原町の南部が、軽井沢の発展に伴い「(大字)北軽井沢」と名付けられ、群馬県側の軽井沢となっている。
そのため、「北軽井沢」に隣接する「嬬恋村」の南東部分では、「北軽井沢」を名乗る施設が数多く存在するのも無理はない。
また余談だが、カミさんは友達のバンドに所属してヤマハのポプコン(Popular Music Contest)に参加していたので、ヤマハの「つま恋リゾート」と完全に混同していたようだ。
もちろんこちらは、当時のヤマハ発動機社長川上源一が命名した施設名であり、そもそも地名ではない。
つまり、地名としての「嬬恋」は、地域ブランドの「軽井沢」や、施設ブランドの「つま恋」の陰に隠れて、少なくとも我が家では認識されていなかったことになる。

それでは「嬬恋村」を確認しよう。
村名の「嬬恋」は、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征からの帰路、鳥居峠に立ち、海の神の怒りを静めるために海に身を投じた愛妻の弟橘媛(オトタチバナヒメ)を「吾嬬者耶(あづまはや=ああ、我が妻よ、恋しい~)」と追慕したという伝説に由来する。
ちなみに郡名などの「吾妻(あがつま)」も同じというから、重みを感じる。
江戸時代には、上州と信州を結ぶ街道が整備され、沿道には宿場が設けられ、大笹には関所も置かれるなど、人馬の往来で賑わったが、天明3年(1783)に浅間山の噴火が浅間山北麓に大きな災害を発生させ、特に鎌原村は犠牲者477名など壊滅的な被害を受けた。
明治22年(1889)の市町村制の施行に伴い、かつての田代・大笹・干俣・大前・門貝・西窪・鎌原・芦生田・今井・袋倉・三原の各村が合併して嬬恋村が誕生し、現在に至るまで廃置分合を行った事がない。

という訳で、嬬恋村は少なくとも1889年の成立以後、自主独立を維持している。
僕はこのことを強く念頭において、8/9嬬恋村観光協会を訪問した。
笑顔で出迎えてくれた事務局長のMさんに対し、僕はまず、嬬恋村と軽井沢がごっちゃになっていて、今回初めてその存在と範囲を認識したことを謝罪した。
すると、なんと、彼は事前に僕のことをSさんから聞いていて、すでに拙著:地主の学校を購入していると言うので、僕は重ねて恐縮した。
同席する地域おこし協力隊のSさんも交えて話していると、Mさんも地域おこし協力隊を経て定住を決めた余所者で、三浦市出身だとのこと。
ワンフォーワンのSさんとIさんも三浦半島在住だし、僕も横浜市民なので、余所者同士、大いに盛り上がった。

ここからが本題で、まず、「JR吾妻線の終点は、嬬恋村の大前駅になっているが、ここには村役場だけでなく、何か大事なものがあるのか?」と、失礼な質問をした。
すると、「特に何もありません、JRは吾妻線を長野県の上田に繋げたかったが、お金が無かったようです。」と笑って答えてくれた。
村の人口について尋ねると、かつて長野県との県境にあった小串鉱山が、最盛期には2000人程が住むある種の街を形成していたが、昭和46年(1971年)に閉山した後の村の人口は9500人程度で推移しているとのこと。
その一方で、戦後の開拓政策により、キャベツ生産を農業経営の柱として発展し、1966(昭和41) 年には夏秋キャベツの野菜指定産地となった。
その後、国営、県営開拓パイロット事業の実施により耕地面積が拡大し、今や、全国的にキャベツの一大産地として名声を博しているが、機械化による効率化が進むため、人口増には寄与していないという。

だが、面白いのはここからだ。
一大ブームを巻き起こした「世界の中心で愛を叫ぶ(通称セカチュー)」に触発されて、「キャベツ畑の中心で愛を叫ぶ(通称キャベチュー)」が誕生した。
2004年にクリエイターの小菅 隆太さんがひらめいて、「日本愛妻家協会」を立ち上げ、日本武尊のエピソードと美味しいキャベツが実る広大な畑をつないだのだ。
さらには、天明3年(1783)浅間山大噴火の火山灰が浅間山北麓にもたらした「黒ぼく」という土壌を、キャベツ栽培に改良することにより、極めて良質なキャベツが栽培されるようになったという。
黒ぼくとは、別名「のぼう土」と呼ばれる「ダメな土(のぼうのぼうは、でくのぼう」で、ウクライナからロシアにかけて分布する肥沃な「黒土」とは別物だ。
こうした地域の神話や自然環境と、キャベツ栽培というビジネスが連結することで、「嬬恋キャベツ」が地域を支える産業となっていく。
地域+ビジネス=産業・・・面白いし、大事だね。