戦争と停電

8月4日、中国が11発の弾道ミサイルを発射した。
報道によれば、台湾をめぐる米中の対立が高まる中強行された、アメリカのペロシ下院議長の訪台に対する報復だ。
これを受け、政治家や有識者たちの議論も大いに盛り上がっている。
特に、5発の弾道ミサイルが日本のEEZ内に落下したことを受け、台湾に隣接する与那国島からの実況中継など、緊迫感を伝えている。
もしも与那国島に着弾の恐れがある場合に備え、国民保護法に基づき、島民の避難計画が作成されている。
ところが、避難は島内の港や空港までで、その先島外の避難経路については何も決まっておらず、有事に際し設置される政府対策本部の指示を待たなければならない。
こうした危機管理における仕組みの不備は、災害や原発など様々な対策においても指摘されている。
だが、戦争と災害を一緒ごたにしていいのだろうか。

考えてみると、近頃の気象報道に違和感を感じるのは僕だけか。
世界を席巻する猛暑、線状降水帯による集中豪雨など、近年の異常気象は頻繁に災害を引き起こす。
一方で、世界をつなぐ情報網の充実や、気象観測や解析技術の進歩に伴い、詳細な予測が可能となり、天気予報の報道が充実したのは理解できる。
だがテレビやラジオは、迫りくる危機に備え、「命を守る行動を!」と意味不明な避難行動を促す警鐘を連呼するばかり。
先日は、大雨に対する特別警報の発令が深夜になってしまったことを謝罪する気象庁の会見を見て、変な気分になった。
もしも突然爆弾が落ちてきたら、「予測できませんでした」と防衛省が謝罪するのだろうか。

気象に関する特別警報は、大雨(土砂災害、浸水害)・大雪・暴風・暴風雪・波浪・高潮の6種類で、ここには地震や火災、もちろん停電や原発事故も含まれない。
でも、地震予知の他、熱中症や花粉症に関する警戒情報に加え、今年から電力需給ひっ迫注意報や警報が発令されるようになったことは興味深い。
異常気象による災害や病気は、その原因である異常気象を回避することができないが、電力需給のひっ迫による停電は、電力使用を減らすことで回避可能だ。
もちろん、エネルギー源の供給が長期間ひっ迫し、停電が避けられない場合には、計画停電や計画節電など避難的に対処せざるを得ない。
しかし、まずは停電の回避を目指し、節電を呼び掛けることに異論はない。
非難とは、回避を諦めた後に取るべき手段だから。

だとすれば、、、戦争が災害でなく停電なら回避できるはずだ。
停電(ていでん)とは、配電(電力供給)が停止すること、主に需要家への電力供給の停止について言う。
ならば、戦争(せんそう)とは、「誰に対する何の供給」が停止することかを考えて、その供給を確保すればいいはずだ。
これは難しい課題だが、考える価値は大いにある。
まず必要なことは、発想の逆転だ。
ウクライナの戦争を阻止できなかったことは残念だが、いまだに辞められないことはもっと悔しい。
戦争には武器の供給が欠かせないが、これを停められないことが戦争を長期化している。
停められない理由は、武器供与しているのが我々自身でないからだ。
つまり、我々自身が戦争当事者にならなければ、戦争を終わらせることはできないのか。

だが待てよ、本当に戦争当事者たちは戦争を望んでいるのだろうか。
ここで言う「戦争とは、兵力による国家間の闘争」を指すが、国家の代表同士が決闘するならいざ知らず、その命令により殺戮を強いられる兵士たちは、何かが絶たれているのではないか。
かつて日本の陸軍刑法および海軍刑法には、軍人、軍属が上官の命令に反抗し、または服従しない罪として「抗命罪(こうめいざい)」が規定されていた。
ドイツでは、1999年NATOのセルビア空爆に空軍として戦後初めて戦闘に参加した際、一兵士が攻撃命令に従わないことを表明したという。
またイラク戦争でも、ある将官が自作の軍用ソフトが戦争に使われることを危惧して開発を拒否したが、裁判所は良心に基づく命令拒否を認め、連邦軍には彼に不利益をもたらすことを禁じた。
ドイツではこれを、上司の命令に逆らう権利「抗命権」というらしい。

停電を防ぐため、我慢して電気の使用をやめるように、戦争を防ぐため、我慢して上司の命令に従うのをやめよう。
戦争を悔いるドイツの人たちにできることなのだから、僕たちにできぬはずはない。
世界で唯一戦争を放棄している国に暮らすのだから、そうぜずにいられるはずはない。