民主と共和

5月13日友人のS君がFBにシェアした記事が、あまりにも衝撃だったので、ここに引用したい。
記事は「民主主義は生き残れるか」の前編
 https://www.toibito.com/interview/social-science/politics/3374
1.参加と責任のシステム
2.君主制、貴族制、民主制
3.共和制という発想
4.議会とは何か
この「東京大学社会科学研究所 宇野重規教授へのインタビュー」には後半も有るので、興味のある方はまずご一読を。
そして是非、僕の意見も聞いて欲しい。

この記事を読んで僕が驚いたのは次の2点だ。
第1点は、世界の歴史は君主制⇒貴族制⇒民主制へと変化してきたかのように思っていたが、古代ギリシャで成立した1500以上のポリス(都市国家)において様々試行され、アリストテレスが著作「政治学」の中で、これら3つを比較検討していたこと。
そして第2点は、古代ローマにおいて上記3つを組み合わせ、君主役の「コンスル」という執政官を、貴族役の「元老院」を、そして民主制の意図を汲んだ「民会」を置いた共和制が生まれたこと。
アメリカにおける「大統領-上院-下院」の仕組みは、まさにその流れを汲んでいるということだ。

共和制が、君主制の独裁と、貴族制の腐敗、そして民主制の衆愚政治を防ぐための仕組みなら、恐らくこれに異を唱える人は少ないだろう。
現に、世界の国々はごく一部を除き、様々にアレンジしながら共和制を取り入れている。
中国が「中華人民共和国」、北朝鮮が「朝鮮民主主義人民共和国」であることを考えれば、すでに共和制こそが世界をつなぐ仕組みになっていると言っても過言ではないと思う。
先ほど述べた2点の驚きは、ずっと以前から慣れ親しんできた「共和制」の意味を、実は何も分かっていなかったという衝撃だ。
もしもこの記事にあるように、共和制が「君主制、貴族制、民主制のいいとこどり」だとするならば、日本も本当は共和国なんだろうか。

もしも共和制が民主制を内包する概念なら、「民主制と共和制の違い」という議論には意味が無い。
だが、両者の違いをググると、「共和制は国家元首(大統領)を国民が選ぶ制度」という記事があり、そこには「したがって日本は民主制」と書いてある。
これは、「天皇制だから民主制」というめちゃくちゃの上に、すでに天皇は国家元首でなく象徴なのだから話にならない。
一方、共和制だとすれば君主に相当するのは誰なのか。
議院内閣制における総理大臣が君主ではないとするなら、天皇を君主とみなすのが順当であり、現に国賓を迎える役割を公費で担っている。
むしろ、君主役の天皇から選挙権などの人権をはく奪することで無力化したことが、日本独自の共和制と考えると合点がいく。

それでは、貴族制にあたる参議院と、民主制にあたる衆議院はどうだろう。
イギリスの貴族院・庶民院に倣って作られたこの仕組みは、戦後「民主化」の名のもとに形骸化し、参議院の存在意味はほとんど感じられない。
インタビュー記事の「4.議会とは何か」に述べられている通り、議員はみんなの代表ではなく、選挙は政党から送り込まれた「候補者」の人気投票にすぎない。
「民主制のいいとこどり」という共和制のごく一部を「民主制」と思い込ませ、民主制自体の欠点を解消したり利点を伸ばす努力は見当たらない。
そして今、「民主」という言葉が形骸化するだけでなく、中国やロシアなどを孤立化するためにまで悪用されている気がする。

君主も貴族も生まれる前、そもそも人類は「民主」から始まったはず。
民主から派生した君主や貴族を志向した末に、「共和」という「君主・貴族・民主のいいとこどり」が生まれた。
その後現代に至るまで、「共和」の枠組みで更なる新たな仕組みが試行されてきたのは、原点である民主への回帰を目指しているからではないだろうか。
(このあたり、インタビュー記事の後半に書いてある。)
インタビュー記事の「1.参加と責任」にもある通り、「古代ギリシアのデモクラティアという言葉は、デーモスとクラトスに分解でき、直訳すると「民衆の力」「民衆の支配」といった意味になります」とか、「くじ引きで選ぶ官僚」や、「みんなで裁く裁判」など、デモクラシー(民主主義)が「参加者が責任を持つ仕組み」であることを述べている。
以上、僕の「国づくり活動」が目指す「みんなで地主=民主」について、大きな気づきと学びを得た、感謝。