排除のリスク

今朝、僕は高校時代の恩師C先生に呼ばれ、隣町のご自宅に赴いた。
茶の間に通され座るなり、「苦労して何とか2回読んだ」とおっしゃって、付箋だらけになった「の学校」を見せてくれた。
僕はすっかり恐縮して「ありがとうございます、いかがでしたか?」と尋ねると、「君のこだわりや強い思いはよーく分かったが、書いてある内容は難解で多岐にわたり、2回読み終えるのも行ったり来たりで一苦労だった。」と苦笑い。
「ま、一言で言うと“理系の本”だな」と、古文の先生ならではの言い回しで言い放つ。
でも今の僕にとって、尊敬と軽蔑が入り混じったようなこの感覚は、なぜか心地よい。

先日「地をつくる」を執筆されたHさんを訪ねた時、「僕はもともと早稲田の理系研究者だが、文学が持つ“難しい概念を人々に伝える力”に魅了され、残された人生を小説家として極めたい」と語るのを聞いて感じた感覚を思い出した。
僕は「私有に依存せず共有を取り戻す」というH氏の主張と、「権利を占有せず、与えあう関係を作ろう」という僕の主張が「共に目指すもの」について議論したかったのに、彼はもはや自分の論を高める「科学」より、それを広めるための「文学」を極めたいと言う。
僕から見れば、C先生とH氏の言うことはほぼ同じだが、僕に寄り添ってくれながら意見するC先生と、僕を認めるからこそ突き放してくださるH氏では、何か裏表の反対側から見る気がした。
尊敬の反対は軽蔑かも知れないが、尊敬される側は尊敬する側の人を軽蔑しているわけではない。
むしろ、尊敬しあうことを尊敬関係、軽蔑しあうことを軽蔑関係とでも呼びたいと、僕は思う。

さて、この議論の行き先に、実はロシアが見えている。
僕たちとロシアの間は今、尊敬関係か、軽蔑関係のどちらだろう。
恐らく多くの人たちは今、ロシアを心の底から軽蔑しているだろう。
だが、ロシアの人たちもまた、統制された情報だけに触れることで、世界を軽蔑しているかもしれない。
ロシア軍の攻撃を受け、逃げ惑うウクライナの人々に対し、僕たちは同情を禁じ得ない。
だが一方で、ロシアが今や巨大な北朝鮮のような状態になっているとしたら、世界の人々は同情するかもしれない。
そんな状況を作り出すプーチンという独裁者こそ、誰もが恐れる対象だ。
だが、そんなことは当の昔から判っていたのに、まさか今時するはずが無いという根拠のない思い込みもまた、自身の中にある恐るべき思い違いかもしれない。

いよいよ対立はエスカレートして、ロシアの主張はでたらめになりつつある。
ウクライナが生物兵器を準備しているとか、大量破壊兵器を隠し持っているとか。
だがこれらは、以前アメリカがイラクやシリアに行ってきたことと酷似する。
ロシア国内の情報統制もさらにエスカレートし、反戦デモなどの抗議活動への取り締まりは厳しくなる一方だ。
だがこれらは、昭和初期の日本社会と全く同じだ。
恐らく当時の日本は、連合国サイドからの経済制裁を打開するため、中国やアジアへの侵略に活路を見出したのだろう。
今のロシアの軽蔑すべき卑劣な行為は、全てが身に覚えのあることに僕は思う。

今日はいくら頑張ってもボヤくことしかできないので、最後にもう一つぼやきたい。
それは、パラリンピックからロシアを排除しなければ良かったという後悔だ。
情報統制しているプーチンにとって、ROCの排除はむしろ思うツボ。
あえて受け入れて、メダルも取らせ、代表選手に真実を語らせるべきだった。
プーチンロシアは、世界を自分の都合に合わせて裏返しに説明している。
だったら、ロシアの人々に真実を知らせることをもっと真剣にやるべきだ。
すくなくとも「排除」などしている場合では無いことだけは、僕にも分かる。