「無い」に挑む

ロシアによる侵攻は、ウクライナの反撃が続く限り、終わりそうに無い。
ウクライナは、自ら存続のため、反撃をやめることは無い。
ロシアは、ウクライナが非武装化と中立化(NATO絶縁)しない限り停戦しない。
誰もがその終結を望んでいるはずなのに、その糸口は無い。
どこもかしこも「無い」だらけ。
世界はまさに、「無い」を何とかするしかない。

「無い」に立ち向かうには、無を「存在しないこと」として捉えるのでなく、「無の在り方」について考える必要がある。
釈迦の説く仏教の内容は、文献や学派によって異同があるものの、ほぼ次の五つに集約されるという。
①未生無(みしょうむ):原因が無いとき、結果は生じて無いということ。
②已滅無(いめつむ):過去にあったが滅したものは、すでに無いということ。
③不会無(ふえむ):今この場所に無いということ。
④更互無(こうごむ):AはBでは無い、BはAでは無いということ。
⑤畢竟無(ひっきょうむ):過去に無く、未来に無く、現在にも無い、存在し得無いこと。

まず言えることは、私たちは③の不会無に直面しているということだ。
これがもし、②の已滅無であれば対立の無かった過去に立ち返り、双方が関係修復を模索できるはず。
そもそも原因が見当たらない①の未生無であれば、これから新たな関係を構築すればいい。
だが、④の更互無であれば、ウクライナとロシアが両立しないことになる。
そして、⑤の畢竟無だとすれば、世界平和そのものがあり得ない話となる。
つまり、勝手に整理すると、③という課題は①または②であれば対処できるが、④や⑤であるならば受け入れるしかないことになる。

①の未生無は、そもそも原因が無いので結果が見つかるはずが無いという考え方。
原因を過去と言い換えれば、「有りもしない過去」を根拠にする「現状への不満」では、解消できない。
そもそも領土問題は、双方が認め合わない歴史上の過去を根拠とする点で、尖閣諸島などいずこも共通する。
これを放置する限り、現状を原因とする新たな未来を、双方が力ずくで描こうとする。
これに対し、②の已滅無を応用し、諦めずに過去の原因、つまり課題解決されていた過去を探し出し、課題をその喪失としてとらえ直すこと。
失われた地主を再発見する「地主の学校」が、まさにその手法に基づいている。
だがもしも、本当に①を②に転化できないなら、私たちは④や⑤を覚悟しなければならない。

④の更互無に対しては、「国家としての存続」ととらえ、すでに「地主の学校」でも述べている。
日本の社会圏が一つの国家として存続するより、小さな国の集合体となるべきという提案は、ロシアとウクライナの対立においても成り立つ議論に思える。
双方が地域社会の連合体であることに立ち返り、どちらのグループに所属したいのか平和的に再統合することでしか打開できないのかもしれない。
そして⑤の畢竟無にいたっては、戦争こそ国家の存在意義であり、戦争をしない国家などあり得ないという諦めだ。
たとえ世界が2国の対立に巻き込まれても、参戦だけは踏みとどまっている現状を、「歴史的に重大な一歩」としてとらえても良いと思う。

そして、この一歩は過去に例のない①でなく、失われつつあった②であることを忘れてはならない。
第2次世界大戦後、全ての戦勝国が作り出した国際連合憲章の第2条4項は次のように定めている。
「すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない。」
ロシアもウクライナもこれを批准していることを忘れてはならない。
ましてや、憲法第9条において、上記「慎まなければならない」を「放棄」と書き換えた日本こそ、この変化をリードすべきだと僕は思う。