侵略と戦争

ウクライナ保健省は26日、ロシアによる侵攻を受け、これまでのところ子ども3人を含む少なくとも198人が死亡したと明らかにしたと、キエフよりロイターは伝えている。
この真偽は分からないが、恐らく軍隊による殺人が行われたことは確かだろう。
殺人はもちろんのこと、傷害も重大な犯罪だが、戦争の名のもとに国家が犯す場合、これは犯罪にならない。
今現在、誰もこの犯罪を止めることができず、ウクライナ軍が必死に応戦することでロシア兵にも死傷者がいるはずだ。
そして、どちらかが勝者(戦勝国)になれば善になり、悪としての敗者(敗戦国)が責任を負わされる。
そう、これこそが「国家」の正体だ。

世界の国家が一堂に会する国連の場でも、ロシアとウクライナは対立する。
ウクライナ代表が、戦闘で殺害された戦士に黙とうを捧げたいと提起すると、議長のロシア代表がこれを妨害する。
ウクライナ代表が、各国に救済を呼び掛けても、誰も参戦してくれない。
だがそもそも、「United Nations(国連)」とは「連合国」のことであり、国同士の戦争をやめるための組織のはず。
これまで世界の警察を気取ってきたアメリカが、たとえ非難されようと参戦を拒むことに、僕は賛同する。
経済制裁という言葉は好きになれないが、戦争以外の手段と自らの我慢によって、全ての人がこの2国の戦争当事者に恥辱を与えるしかない。

一方で、戦争に抗議する人達の活動も活発化している。
世界各国はもちろんのこと、日本国内でも、そしてロシア国内でも抗議運動が行われている。
でも、「抗議の対象」が、「侵略行為」と「戦争行為」のどちらを指すのかが気になる。
侵略(しんりゃく)とは、国際法上、ある国家・武装勢力が別の国家・武装勢力に対して、自衛ではなく一方的にその主権・領土や独立を侵すこと・・・であり、あくまで自衛の戦闘を否定するものではない。
ロシアのプーチン大統領は、ロシア系住民の救済を口実に侵略を否定し、ウクライナのゼレンスキー大統領は自衛のために徹底抗戦している。
つまりこの戦争は、「侵略」を伴わない「自衛」の戦いという名のもとに、双方が正当化しようとしているにすぎない。

そこで僕は、「侵略反対」でなく「戦争反対」を主張する。
だからこそ、自衛を正当化することで戦争し続ける「既存の国家」を否定し、いかなる問題も「戦争によらない解決」を目指す「新たな国づくり」を提唱しているつもりだ。
僕がそんな発想に至ったのは、すでにそんな国が存在するからだ。
ご存知の通り、日本は世界で唯一「戦争を放棄」している国家だ。
それを定める憲法は、確かに自ら定めたものではなく戦勝国から押し付けられたものかも知れない。
だが、それならなおのこと、この憲法にのしを付けて、世界に叩きつけるべきだと思う。
今こそ自衛を含む「戦争そのもの」を、放棄する勇気を持つべしと。

でも残念ながら、日本国民はまだこの定めに合意できていない。
自衛のための軍隊を憲法に明記したいという意気地なしが、大勢いる。
ならば、この国を分割し、戦争する国としない国に分けるべきだと僕は思う。
間違っても、「いんちき多数決」で戦争できる国にしたい奴らの仲間には、なりたくない。
このように、「思いを共有する人々」をコミュニティと言う。
社会の多様性とは、無理やり一つにまとまるのでなく、思いの数だけ多様なコミュニティが存在することのはず。
戦争を放棄する日本だからこそ、争わずに競い合う多様なコミュニティが共存する社会を作るべきだ。
全国一律に賑わいや繁盛を求めるのでなく、それぞれの幸福を追求することが、小さな国づくりの目的だ。