コロナ禍でのオリンピックがついに始まった。
昨年開催するはずだったのに、新型コロナウィルスの感染拡大を防ぐため、多大な犠牲を払いながらの1年延期だった。
そのせいで、選手としての寿命を迎え出場を断念する選手がいる一方で、力をつけて出場を果たす選手もおり、この延期を単純に嘆く必要はないだろう。
だが、東京の新規感染者はかつてない勢いで急増し始め、皮肉にも最悪のタイミングでの開催となってしまった。
今回の緊急事態宣言は、「せめてオリパラ期間中の発令だけは回避したい」という本末転倒が露呈している上に、土壇場での「無観客開催」や、相次ぐ関係者の辞任など、ぼろぼろのスタートになってしまった。
だが、更に僕の心をかき乱すのは、盛大に報じられる「ルールを守らない人たち」の行状だ。
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まず筆頭にあげたいのは、「謝罪を繰り返すリーダーたち」だ。
謝罪の理由は様々だが、共通して言えるのは「取り返しのつかない失敗」をすでにしてしまったこと。
社会におけるルールを作り、その遵守を呼びかける立場の人が謝罪するということは、「説明という言い訳」すらしないことを意味している。
これではルールを守らない人たちに、何もできないのと同じこと。
これを嘆き、批判するだけのマスコミや評論家・芸能人たちを眺めて、多くの人が「賛否を口走る」だけだ。
また、紹介される「守らない人たち」も、「謝罪と言い訳」を口走る。
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ルールはなぜ守らなければならないのか。
この言葉に、僕はいつも違和感を感じていた。
ルールを守るとは、「ルールそのものを変えずに守ること」と「自分自身がルールに従うという約束を守ること」の二つの議論が混ざり合っている。
「ルールは正しいが自分は従わない」とか、「ルールを破ったことを謝罪する」という言葉は、「ルールを総論・自分を各論」に置き換えている点で同類だ。
だが、話はもっと複雑だ。
従う対象としてのルールにも、様々な種類がある。
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競技のルールには、従わなければならない。
ルールの範囲内で戦うことが競技であり、それを犯すことは反則だ。
ルールはその競技を面白くするためにあり、前提条件ともいえる。
ルールによって勝敗を定める。
ルールに反すれば、罰則が科されたり減点されたりするが、ルールが競技の魅力を損ねる場合は変更されることもある。
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社会のルールには、従うべきだ。
その理由は、みんなが自分たちで決めたルールだから。
賛成するルールなら、これを勝手に変えようとする人たちから、守らなければならない。
一方で、ルールに反対なら、その変更を求めるべきだろう。
ルールを守りたい人と変えたい人の戦いは、賛成と反対の対立によるものだ。
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自然のルールには、従わざるを得ない。
太陽は東から登って西に沈み、生まれた者は必ず死ぬ。
自然の摂理には逆らおうとしても、無駄なことは誰でも知っている。
でも僕らは、このルールに従わなければならない訳ではない。
諦めずに挑むうちに、そのルールが単なる思い込みに過ぎなかったことに気づくことがある。
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偉そうに、競技・社会・自然の3つに分けてルールの多面性を考えてみた。
もちろんこれは、僕が勝手に作った解釈なので、様々な異論もあるだろう。
だが、ここで言いたいことは、これらの違う面から見ることが「意見の相違を生み出している」という疑いだ。
3種類のルールに対して、ルール自体と自分自身のどちらに主眼を置くかで、6種類の議論が交錯しているのではないだろうか。
ルールに関する多くの議論が、ボタンを掛け違え、すれ違っているように聞こえてくるのは、当然のことだと思えてくる。
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この問題を解決するには、相手と同じ土俵に立って議論する必要がある。
さもないと、相手を褒めたり非難することで、快感や不快感を楽しむ世間話や噂話になってしまう。
もちろん世間話や噂話を楽しんだって構わないが、それを議論と勘違いし、相手を評価したり軽蔑するのはいかなるものか。
議論と世間話は違う種類のゲームであり、違うルールで楽しむべきものだ。
偉大な自然や、大きな社会のルールに抗うだけでなく、人生を自分でルールを作り出す競技やゲームと思ってもいいじゃないか。
僕はオリンピックの開会式を見ながら、そんなことを考えた。
What game shall we play today.
人生はゲームだね、