売買(ばいばい)とは、当事者の一方(売主)が目的物の財産権を相手方(買主)に移転し、相手方(買主)がこれに対してその代金を支払うことを内容とする契約(wiki)。
現代社会において、欠くことのできない行為であり、恐らく「一度も売買しない人」はいないと思う。
だが、売買には必ず「売主」と「買主」の双方の当事者が必要なのに、全ての人がその双方を経験するのでなく、多くの人が「買主」つまり買うだけの人になっている。
先ほど述べたとおり、売買に際し、売主には「目的物の財産権」、買主には「その代金」が必要だ。
前者の「財産権=売り物」を生み出すことなら誰にでもできるかもしれないが、後者の「代金=お金」は誰もが生み出せるものではない。
なのに、売ることをせず、買うばかりの人が大勢いるのはなぜだろう。
いや、ひょっとすると多くの人にとって、この疑問そのものが奇異に思えるかもしれない。
むしろ、多くの人は何を売ることでお金を得ているのかを考えるべきなのかもしれない。
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自分自身を「主体の主」と考える時、人間関係は「主客関係」と「主従関係」に分類できる。
主客関係における主とは、客をもてなす自分であり、主従関係における主とは、従者を管理する自分のこと。
これを売買に当てはめると、主客関係では客が買主で自分が売主になるが、主従関係では雇う(給与を払う)側の自分が買主で雇われる側の従が売主となる。
つまり、給与などの「お金を受け取ること」を「何かを売ること」と考えれば、そこに売買が成立する。
労働の対価(代金)として報酬を受け取るのでなく、報酬の対価として何を売っているのかを考えれば、その答えは見えてくる。
もしも「時給2000円」で働くのであれば、その人は1時間を2000円で売っていることになる。
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それでは、労働もせずに得られる不労所得は、何に対する代金か。
預金の金利や、株式など投資の配当は、お金に対する代金だ。
確かに、預金や投資額相当のお金を自分で稼ぐために必要な時間を、利息や配当金額で買えるなら安いものかも知れない。
だがそれは、あくまで買う側のメリットであり、売る側のメリットは何だろう。
お金を貸したり預けることで、利息や配当を得るメリットもまた、自分で稼ぐのにかかる時間を省略できることだろう。
つまり、お金の価値は、自分でやらずに済むメリットだ。
だとすると、自分でやらずに成し遂げたいことは一体何なのか。
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まず第一に考えられるのは、自分の力でできないこと。
たとえば、2万円払えば、国内何処でも飛行機で2時間以内に行けるが、自分の力では不可能だ。
もっと身近なところでは、120円で買えるコーラを、自分で作ることは不可能だ。
お金が無ければ、家も車も買えないどころか、電気や水道すら使えない、
つまり、お金が無ければ、生きていくことさえ難しいのが現実だ。
そしてもう一つが、できれば自分でやりたくないこと。
自分がやりたくないことを、人にやってもらうことで、その分の時間を自分のやりたいことに使うことができるはず。
つまりお金は、寿命という限られた時間から、「自分の望まない時間」を減らすための道具だと、僕は思う。
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もしも、「自分の望まない時間」が「誰かの望む時間」なら、売買によって人類は幸せになるだろう。
互いが得をする「ウィンウィンの関係」とは、そういうことを意味している。
もしも世界中の人々がすべて独自な存在で、互いが補い合う多様性を実現できるなら、互いが「得意と苦手」や「好きと嫌い」を売買によって交換する世界が実現するかもしれない。
だが、現実のグローバル化はむしろ画一化を意味しており、世界の標準化が進んでいる。
せっかく地球には東西や南北の違いがあり、自転による時差も加えれば世界に同じ地域は存在しない。
売買に基づく世界経済は、世界を平準化するためにあるのではなく、むしろ世界の多様性を原動力にすることで持続するのではないだろうか。
いまこそ、一律の価値観から脱却し、安易に安売りを目指すのでなく、一部のもの好きを対象にした「独自の高級品」を作りたい。
ゴミとお宝の価値観が逆転するような、多様な地域を目指したい。