言葉と世界

かつて、「世界は言葉でできている」という言葉に違和感を感じた僕は、「言葉は世界でできている」と唱えたことがある。

当時の僕は、勝手に「世界学」を提唱し、次のように説明した。

「言葉で世界を説明出来るのは、世界のすべてに対応する言葉を用意してあるからであって、世界が言葉で出来ているからではありません。その証拠に、個々の言葉を説明するには、世界の「それ」を指し示すしかできず、私たちは自分で感じ取った世界に言葉を当てはめているにすぎません。そこで、言葉の意味や構造を、理屈で考えるのでなく世界から直接感じとり、世界そのものの構造を探っていきたいと思います。https://nanoni.co.jp/juku/e/」

当初はサブタイトルとして「・・・言葉は世界でできているのだから」と書いていたのだが、今は「・・・言葉の構造を知ることで、世界の構造を解き明かす」と直している。

この「ささやかな変化」を、昨日のイベントが思い出させてくれた。

昨日は墨田区の北側「八島花(八広・京島・文花)エリア」で街歩きを行った後、僕が誘った仲間たちとプロジェクトの若者たちで、仲良く遅くまで語り合った。

僕に与えられたお題は「みんなで地主」だったので、「みんなが地域の主になることこそが、ホントの民主主義」と熱く語った。

だが話せば話すほど、誰もがきょとんとした釈然としない顔つきだ。

だから僕は、こんな説明を付け加えた。

地主とは、8世紀ころ、荘園制度の中で開墾した者に土地所有を認める”地主職(じしゅしき)”と呼ばれる役割の名称が起源のようだ。

それが時代とともに”名主”や”庄屋”に変化したが、明治維新でその社会的役割は地方自治体に引き継がれた。

以後、小作人をこき使う”寄生地主”という呼び名が定着したが、戦後の農地改革でほぼ解体消滅した。

地主は土地所有者なので、「みんなが地主」とは「みんなが土地所有者になること」を意味しているが、それは所有権を購入したり、登記することでなく、所有者と「家族」になって所有すること。

そして「家族」とは、血縁関係のことでなく、「家族として認め、受け入れる仲間」のこと。

さらに「所有」とは、昔「あらゆる」と読む言葉だったのが、明治時代に「オーナーシップ(Ornership)」の訳語として生まれた和製漢語だ。

なので、「みんなで地主」とは、国づくりを政府に委ねた150年前の失敗を乗り越えるため、仲間と社団法人を作って不死身になり、仲間と一緒に国を作ること。

こんな話をした後で、皆さんから感想を聞くと意外な言葉が返ってきた。

まず意外だったのは、「いつも分かりにくい松村さんの話が、今日はとても分かりやすかった。」という僕の仲間からの発言だ。

そして「松村さんが書いた”地主の学校”をみんなで添削したけれど、それは無駄じゃなかったね!」という言葉は、更に嬉しかった。

これを聞いた初対面の若者たちの表情が、見る見る和んで行くことも感じられた。

それは恐らく「自分の理解は、たぶんそれで間違いないのだろう。」という安堵ではないだろうか。

そのおかげで、僕自身も体がぽかぽか暖かくなるのを実感した。

かつてソシュールという言語学者が唱えたこんな理屈が、「構造主義」の元になったと言われている。

例えば「虹は何色あるか」という質問に、日本人は7色、アメリカ人は6色、ドイツ人は5色と答えるのは、「赤」と「red」と「rot」の意味の幅が違うことで見る世界も違ってくることの一例で、日本語には、赤・橙・黄・緑・青・藍・紫というそれぞれの「言葉」があるから、「虹」が7色に見える。

終戦後、サルトルが唱えて大ブームとなった「実存主義」的に言えば、実際に虹があるからその色の話ができるのであって、それを他人がどう思おうと本質ではないのかもしれない。

だが、「世界を説明するための言葉が、世界の理解を形作り、人はその思い描いた世界=言葉の構造に影響される」という構造主義が、次第に実存主義を駆逐していったようだ。

僕の頭の中に合った「言葉と世界はどちらが先か?」的な議論は、「実存主義vs構造主義」のミニチュア版だ。

僕は、両者を比較するのではなく、両者は一体何のためにあるのかを考えるようになった。

確かに、「世界(実存)」を説明するために「言葉(構造)」を使うし、その逆に「言葉」を説明するには「世界」が不可欠だが、どちらも「説明という手段」であって、「目的」ではない。

だが、僕の目的はどちらかと言えば、場合によって両方が目的になる。

僕は「みんなで地主」という考え方を理解して欲しいと願ったが、僕の説明だけではそれは叶わなかった。

だが、一部の人から「その説明でよくわかりました」と言ってもらえたことで、多くの人がその理解を受け入れてくれたように思える。

つまり、理解するという理屈(構造)と、それを受け入れるという行動(実存)は、連動しているのではないだろうか。

と、ついつい分かりにくい話になってしまったが、僕の話が分かりにくいのはお許しを。

つまり、「言葉でイメージする世界」と「現実に身を置いている世界」の両方を重ね合わせた世界に生きていることを、僕は昨日再認識した・・・というわけだ。