個性と多様性

一般に、個性(こせい)とは、個人や個体の持つ、それ特有の性質や特徴のこと。

これに対し、多様性(たようせい)とは、幅広く性質の異なる群が存在することを指す。

ここで言う「群」は、個性に類似性のある個体で形成される点が特徴で、単純に「いろいろある」こととは異なる。

ところがwikiによると、「英語の多様性”ダイバーシティ(diversity)”とは、相異なる要素を有する、もしくはそれから構成される状態であり、そこから更に、異なったタイプの人々をあるグループや組織に包摂すること」とされている。

映画「ダイバージェント」では、【無欲】、【平和】、【高潔】、【勇敢】、【博学】の5つの派閥に分けて統治する社会実験が【異端】を生み出して破たんしていく「類似による分類の限界」を描いている。

つまり、「類似=似ている」とは、同じなのか違いなのか。

今日は、このことを少し考えて見たい。

先般の「森失言」は、「女性」に対する「侮蔑」の発言だが、これほどの大炎上となった理由は、「侮蔑」でなく「女性」を対象としたからだ。

もちろん「オリンピック精神への抵触」や、「全ての女性が会議を長引かせる」という女性蔑視解釈など、様々な賛否が積層したのだが、問題の核心はこれが「個人」でなく「女性という群」に向けられたことによることは間違いない。

森氏は決して、世界人口の半分であるすべての女性を敵に回す気は無かっただろう。

なのに彼は、あえて「そう取られても仕方のない言葉」で、テレビに向けて発言した。

そして今、日本社会がこの発言を看過してはいけないことに、ようやく気が付いたのかもしれない。

大切なのは、この気づきだと僕は思う。

「女性」という分類が、その群の構成要素を「会議を長引かせる」と均質化してしまうこと。

このリスクは、すべての分類に付きまとう。

その象徴が「女性らしさ」という言葉だ。

もしも女性の定義が「大きなおっぱい」なら相撲取りも立派な女だが、DNAの形を示すならそれは外見ではわからない。

所詮言葉は、時と場合に合わせて使い分けるコミュニケーションツールに過ぎない。

森氏は、時と場合をわきまえず、抜け抜けと下世話な私見を、公職の身分で公的に発言したわけだ。

僕たちは、森氏ほど高い地位にいるわけではないが、誰かに話をするときはその背後に社会があることを忘れてはならない。

つまり、誰に聞かれても良いように話す必要があり、そうで無ければあらかじめ他言無用と断るべき。

本題に戻そう。

多様性とは、個性の尊重が前提となっている。

群や分類を少数の言葉に集約しないことが多様性である一方で、その群を構成する要素もまた、多様であることを忘れてはならない。

分類とは、似ているもので区別することであり、似ていることは同じことではない。

「1+1=2」を「1足す1は2」と読むが、「は」とは「=」を意味しない。

その証拠に「2=1+1」を「2は1たす1」と読むが、2の他に1+1の答えは無いので、「2が1たす1」というのが正しいはずだ。

全く同じ形をしたコップでも、僕が使ったものとあなたが使ったものでは決して同じではない。

つまり、同じとは、そのもの自体のことを指すからだ。

僕は、社会課題に取り組むふりはしたくない。

個別課題の当事者から、その背景と困りごとを聞き出し、その人が目指すゴールを描いてから、その実現方法を考える。

その過程で、似たような背景や似たような困りごとを持つ人が、似たようなゴールを目指すなら、その実現方法が応用できるだけのこと。

僕は、似たような人たちに呼び掛けて、ついでに便乗してもらいたい。

もし、似たような人が大勢いるなら、そのみんなを手伝いたい。

そしてもし、似たような人が各所にいるならば、僕はどこへでも出かけて行って手伝いたい、

だからまずは、僕を呼んで欲しい。

僕はあなたを「僕の友達」という分類に加えたい。