小さな小さなウィルスが、世界を揺り動かしている。
新型コロナウィルスという病原体がこれほど深刻な事態を招くのは、それが人類にとって未知のものだから。
これまで人類は、幾度となく伝染病大流行を経て、宗教や医学を発展させ、社会を整備してきた。
だが、生命の仕組みが解明されるほどに分かってきたことは、未知の病原体に対しては治療法が無い上に、コロナウィルスの方も更なる変異を遂げるかもしれないということだ。
すでにワクチンの開発は始まっているものの、その完成までには1年以上待たなければならないという。
結局人間は、生態系を含む世界全体の新たな変化に対し、最悪の事態を想定しなければならなくなった。
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現在新型コロナウィルスは、世界中に危機的な状況をもたらしつつある。
これを具体的に言うならば、誰でも自分に危機が及ぶこと、どこでも危機的な状態になりうること、そしていつでもその危機が起き得ること。
この説明は、世界が「人間(who)」と「空間(where)」と「時間(when)」から構成されていると考える僕にとってはたやすいこと。
つまり、知らないものに対処することの重要性は、誰もがどこでもいつでも当事者になりうる課題であるためだと僕は思う。
だが同時に、知らないものに対しては、誰も対処の術を知らない。
新型コロナウィルスの深刻さは、まさにこの点にあると思う。
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社会では、この未知の事態を「異常事態」、「非常事態」、「緊急事態」などと呼んでいるが、それぞれ少しずつ意味が違う。
強引だが、理解するためにあえて分類すると、「異常」とは人間に関する未知、「非常」とは空間に関する未知、そして「緊急」とは時間に関する未知を示している。
まず人間は、ウィルスに感染し検査で陽性反応が出ると、隔離されてしまう異常事態となる。
症状が治まり陰性反応になって、経過観察期間が経過すれば「正常」な人間に戻れる。
次に、感染者が出現したり感染源や経路と思われる空間は、危険度が非常に高まり、閉鎖や集会禁止などの非常事態となる。
人間の健康状態が正常とならなければ、非常事態を解除し「通常」の状態に戻すわけにはいかない。
そして、異常者の発見と非常時への備えに緊急を要する北海道やサンフランシスコ市では「緊急事態」が宣言された。
たとえ正しい対処法でなくても、なにも対処しないことはもはや許されないのが未知への対処だ。
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実は先日、NPO法人HOME-FOR-ALLのミーティングで、こんな議論が行われた。
東日本大震災の被災地における異常事態がもたらした「みんなの家」の成果が、時を経るとともに風化してきたと考えてきたが、それは間違いかもしれない。
「みんなの家」の運営を通して見えてきたのは、人々の孤立化が被災地に限らず社会全般に及んでいることだ。
私たちが日常のぬるま湯の中で、すでに起きている異常や非常に気付いていないだけではないだろうか。
異常や非常に気付かないのは、それが正常や通常とは違う「未知」だから。
「未知」に気付くことが難しいからこそ対処に遅れ、やがて緊急事態を招いてしまうのかもしれない。
伊東豊雄さんが「あと10軒、新たなみんなの家を作ろう!」といった時、僕は重たいドアが開いたような気がした。
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ついに先日、安倍首相は「全国の学校閉鎖」を要請した。
首相の独断だという批判は、首相任せにしてきた無責任者の遠吠えなので、僕は聞かない。
「未知と向き合い、戦おう!」と、僕は拳を挙げたいと思う。
でも、日本における異常や非常は、むしろ新型コロナウィルスでは無い。
学校を保育園化し、子育てを外注している現代社会そのものだ。
まだPCR検査ができないなどと寝ぼけたことを言っている医療システムだ。
マスクだけでなくトイレットペーパーや食料まで買い占めて、一儲けを狙う拝金主義だ。
先日天野家の天野さんが、「ウイルスが人の本心さらけ出す」とぼやいてた。
この「本心」こそが、「隠された未知」なのかもしれない。