(このブログは、総有という言葉と出会う前に書いたもの。)
1軒の家を複数の家族で分け合って暮らすことをシェアという。
それでは複数の家族が1つの家族として一緒に暮らすことは何というのだろう(総有という)。
僕の母は妹と一緒に暮らしているのだが、数年前に父が亡くなり、妹の子供たちが独立していった後に夫も離婚して家を出たため、大きな家で二人暮らしをすることになった。
ある時、お嬢さんの通学用の住まいを探すSさんから相談を受けたので、「母の家に住んだらどう?」と提案し、引き合わせると、なんとあっさり意気投合した。
そこで急遽、妹が子供たちの荷物を整理し家中を片付けて、Sさん母子との同居生活が始まった。
家賃や光熱費など、もろもろ合算した「同居家賃」をいただく代わりに、2階の8帖間の占有使用を認め、残りの部分は同居家族として仲良く使うことにした。
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もちろん仲介業者は介在せず、契約も適当で曖昧だ。
不動産の賃貸借契約というよりは、家族としての同居契約といった方がしっくりする。
はじめのうちは、相手の生活スタイルが分からずにぎくしゃくしていたが、次第に互いのことが分かってくると、食事や入浴を譲り合ったり協力できるようになってきた。
もちろん信頼関係が育たなければ、こうした住まい方はできないが、互いを信頼しようと努力すれば、みるみる関係は育っていく。
今では、Sさんと妹はSNSで連絡を取り合って、母と娘の面倒を互いに調整しながら助け合っている。
そして調子に乗った妹は、片づけをさらに進めて、2階の別の部屋でも住み手や利用者を受け入れたいと言っている。
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昨日はこの家で母の誕生パーティを開き、孫やひ孫たちが集まったのだが、その席で群馬に越した妹の息子が東京で仕事をするために帰ってきたいと言い出した。
すると妹は、我が家の現状とシステムを説明し、「同居費用を払うなら大歓迎」と誘っていた。
つまり、空き部屋の入居者を募るのでなく、空き部屋を利用する家族を募集しているわけだ。
この場合の家族とは、血縁者かどうかではなく、ここでの同居生活を望む人のこと。
他人はもちろんのこと、たとえ血縁家族であろうとも信頼関係を築かなければ、快適な生活は難しいだろう。
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先週の日曜日、僕は足立区西新井のパルコカーサという集合住宅を訪問した。
元は銭湯があったのだが、銭湯を継続させるのは無理だと判断した経営者が、3人の息子たちに土地継承の方法を提案させたという。
銭湯を通じて地域社会に育てられたと口をそろえる息子たちは、入居者たちと親しくなるだけでなく、町会への参加も義務付けた。
この日は夕涼み会ということで、長男のTさんが招いてくださったのだが、オーナーの3兄弟と入居者たちとの語らいは、まるで実家に集う親戚のようだった。
スタイリッシュな2軒長屋がゆったりと配置された住環境がどんなに魅力的であっても、このコミュニティに参加できない人は入居できないことになる。
今では他所に転勤した、企画段階から参加した仲介業者のIさんも、この成功に胸を張る。
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考えてみると「シェア」とは、他人同士が時間や空間を分け合うこと。
所有者が使いきれない時間や空間の遊休部分を使うことで、新たな経済価値が生まれることは確かだ。
だが一方で、時間や空間を使い切れないままでいる所有者側の孤立も問題だ。
そもそも所有者が行動を起こさなければ、シェアも何も実現しない。
ところが、頼みの綱である血縁家族の崩壊リスクは、天皇家ですら免れない。
家族が分散し亡くなることで、所有者は確実に孤立していく。
だから僕は、母の家に他人の家族を招き入れてみた。
そしてこれがきっかけで、母の家に新しい家族が集まり始めている。
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家を分け合うのでなく、家に集まる家族とは、家を所有するのでなく家に所属する人たちだ。
家に所属する人たちは、その持ち分を決めるのでなく、願いをかなえるための役割を決めればいい。
会社に所属する管理者と労働者、学校に所属する先生と生徒などは、会社や学校をシェアしているのでなく、目的のために使っている。
家族もまた、快適に暮らすために役割を分担する。
僕が取り組む「土地所有の法人化」とは、土地を誰かの所有物でなく、仲間が所属する場所にすることだ。
土地をいつか売却して所有者だけが儲けるのでなく、夢をかなえるために仲間といつまでも使うことだ。