土地は誰の財産か?

8月17日、いよいよ地主の学校が開講し、東京・千葉・埼玉から5名の受講者が集まった。

先回のブログで予告したとおり、第1回はこの講座の全体を紹介したのだが、それは僕自身の最終チェックでもあった。

その結果、カリキュラムの順番を変更し、土地について考えることから始めることにした。

当初はまず地主の「主」について説明し、世界の見物人でなく、当事者としての生き方に関する僕の提案から話そうと思っていた。

だが実際に話してみると、提案の後にその理由を説明するより、まずは理由説明=問題提起から始めるべきだと思えてきた。

いや正確には、話しているうちに僕自身の問題意識の核心が見えてきたと言った方がいいだろう。

そこで今日は、次回の予告を兼ねて、土地についての話をしたい。

地主の学校が目指すのは、あくまで「土地の法人所有」なので、ここでは「所有対象としての土地」について話したい。

そもそも土地とは、地球上で暮らす人間たちの縄張りのことだが、文明の発達とともに人々が社会を形成し、その縄張り全体を支配する者が現れた。

支配者は戦争や調略など力づくで縄張りを広げ守ったが、その縄張りは土地ではなく領地と呼ばれる。

土地とは、あくまで支配者が領民に分け与える領地の一部のことであり、それを所有権と呼ぶようになった。

日本では平安時代に、新たに開墾した土地の所有権を与える荘園制度が生まれ、土地の個人所有が始まったと言われるが、これも所詮領主から与えられる権利であり、領主が攻め滅ぼされてしまえばすべて取り上げられてしまう権利だった。

やがて豊臣秀吉の時代に太閤検地が行われ、全国の土地登記簿の元が出来上がった。

この時、農地を耕作するものに所有権が与えられたが、あくまでこれは年貢を確実に取り立てるためであり「所有権=年軍の割り当て」だったと言える。

土地登記を管理する「公図」の原型も、このころに出来上がったようだ。

そして明治時代を迎えると、年貢制は廃止され、土地には地租(後の固定資産税)が課税され、土地所有者は納税者となる。

これまで通りに米を作り、それを売って納税するだけでなく、土地を貸したり、事業を起こしたり、売却することで利益を得ることもできるようになった。

そのため、土地を開発したり道路を通したり売却するたびに分割され、それに伴い分割登記が繰り返され、そして現在すべての土地所有は、この登記によって行われている。

考えてみれば、土地分割すべての原因は、所有権やそれに伴う抵当や差し押さえなどを新たに登記するためなのだから、「土地=所有権」となるのは当然のことだ。

そして、細かく複雑に変化していった公図が、その実情をよく表している。

僕は地主の学校の講義で紹介した「この公図」を見て、問題の核心に気が付いた。

僕の問題提起は、まさにこの細切れになった土地所有権の更なる細分化が止まらないことだ。

まず、細分化が進む最大の要因は相続による法定相続人への分配だ。

そして、相続税を払うための更なる分割や売却だ。

また、売却も多くの場合更なる細分化が待ち受けている。

たとえ細分化した土地を集約する再開発も、ほとんどの場合細切れにして分譲するのが実情だ。

所有権の細分化は、制約ばかりを生み出して、その自由を奪うばかりだ。

巨大なタワーマンションの数百に区分された所有権には、転売の自由くらいしか残っていない。

年貢から地租を経た現在の固定資産税は、課税標準額が30万円以上のすべての土地に課税される。

固定資産税の滞納があれば、自治体が所有権を差し押さえ、競売することで回収する。

つまり、日本の土地所有とは、固定資産税という賃料で所有権を賃貸しているに過ぎない。

その上土地は永久不変の資産なので、個人は相続のたびに何度でも繰り返し課税される。

長男だけが財産を引き継いだ封建社会から、すべての子どもたちに財産を分ける相続制度は、たしかに民主化を進めたと思う。

だが、相続と売却を繰り返す「土地所有の個人化」は、いったい何をもたらすのか?

僕には、地域社会の衰退と滅亡しかイメージできない。

僕はこれまで、「日本は世界で最も強い土地所有権を国民に与える国」と思っていた。

だが今日からは、「日本はすべてを国民個人任せにする無責任な大家」と考え直すことにした。

だが、政府が日本の大家なら、その大家の雇い主は僕ら国民だ。

僕の提唱する土地所有法人は、無責任な日本から永久に土地を借り受けて、固定資産税という家賃を払う「地域経営の担い手」を目指したい。

というわけで、、、地主の学校②は、土地や建物の所有について、現状とその問題点を考える。