孤独と自由

まつむら塾実現学は、久しぶりに最終回の講義を行う。
テーマはもちろん「実現」について、ただ描くだけで終わらせない「実現するための夢」の描き方について考える。
そもそも「実現」とは「夢を現実化すること」を指し。夢が無くても生じる現実を「まぐれ(偶然)」として区別する。
従って、ここでの「夢」は「実現に欠かせない夢」であり、「実現できる夢」と考えてもいい。
もっと端的に言うならば、「実現した状態をあらかじめ思い描き説明すること」と言えるだろう。
自分の思い描く夢をなぜ説明しなければならないのかと、あなたは疑問に思うかもしれないが、説明相手は自分自身なのでご安心を。

さて、「実現した状態をあらかじめ思い描くこと」は、果たして可能だろうか。
もちろんできるに越したことはないが、できないからこそ困っているのが現実だ。
だが、そこで諦めないのがまつむら塾、早速分析を開始しよう。
まず、「実現の状態」には「あらかじめ思い描けることとそうでないことが有る」と仮定する。
それは例えば何なのか、具体例をいくつか考えてみたい。
まず、自分のことなら想像できるが、他人のことになると難しい。
物や空間の様子について、大まかには分かるが詳細には自信がない。
これまでのことならはっきり分かるがこれからのことはぼんやりとして分からない。

こうして分かることと分からないことを列挙してみると、当たり前の答えが返ってくる。
相手の反応や、空間の詳細、そして未来については行動してみなければ分からない。
例えば、サッカーでゴールを決め得点を得ることをどんなに具体的に思い描いても、その通り実現するかどうかわからない。
もしも思い描いたイメージと違う形で得点できたとしたら、それはまぐれと言わなければならないのだろうか。
いや、そんなはずはない、ゴールを目指したパスやシュートがゴールを生めば、それは実現と言って良いはずだ。
つまり、「実現のイメージ」とはそのプロセスの正確さや精密さでなく、到達点の具体性こそを求めている。
だとすると、そのプロセスには何の制約もないのだろうか。

実現というゴールへのプロセスを手段という。
「実現のためには手段を選ばない」とは、16世紀イタリアの政治思想家マキャベリの「君主論」にある言葉「たとえその行為が非難されるようなものでも、もたらした結果さえよければ、それでよいのである」などにより、彼の思想を端的に表した言葉として俗に用いられるが、僕はあくまで「それでよい」を論じた言葉であることに着目したい。
「それでよい」の「よい」は、善悪の善でなく、許される自由を意味している。
個人が目指す実現は「何かをすること」だけでなく「何かをしないこと」も含まれる。
その「何か」こそが手段であり、その選択は自由であるはずだ。

という訳で、「実現のイメージ」とは「到達点(目的)」と「プロセス(方法)」の2つで描くことが出来そうだ。
自分が何かを実現したいなら、この二つを明確にすることで、他人の評価から解放されるだろう。
たとえ「他人からの評価」を目的としても、それは「他人から評価されていると自分が感じられる状態」のことであり、自分の到達点の明確化に他ならない。
僕たちは皆、どこまでも孤独なこと…こそを共有したいと、今あらためて思う。
互いに孤独な自由であることを知り合えば、僕たちは寂しくない、そんな気がする。