社会というゲーム

先日のブログ「憲法を使おう2」の中で、第51条〔議員の発言表決の無答責〕について触れた時、僕は「失言で足を引っ張り合う議員はもちろんのこと、文藝春秋をはじめとするジャーナリストやその聴視者は全て憲法違反だし、それに忖度する行政も、それを放置する司法も同罪だ。」と断じた。
これに対し、ある人から「でも、そんな意見は聞いたことがありません、むしろ憲法の方が間違っているんじゃないんですか?」という質問が飛び出した。
この質問を聞いて、僕は寒気を感じた。
それは僕自身への疑いだ。
普段から口汚い僕が、不適切な発言をして注意されるのは茶飯事だ。
そんな僕だからこそ、「言論の自由」をさらに越えた「発言評決の無答責」に飛びついたのではないかという疑念が頭をよぎった。

いきなり話が錯綜してしまったので、少し整理してみよう。
憲法が守ろうとしている自由を、守ろうとしていない人が大勢いて、むしろほとんどの人が守ろうとしていないと僕は断言した。
だがそれに対し、誰も守ろうとしないのは、そもそも憲法の目指す自由が間違っているのではないかという問いかけがあった。
もしそうだとすれば、なぜ僕はこの憲法を擁護するのか、それは自分の免責を正当化するために好都合だからではないのかと、僕は自身に疑念を抱いた。
そして、この疑念は僕一人にとどまらず、「人は物事の真偽や正誤を自己都合で決めることがある」という普遍的な疑念を想起させる。
僕がこれを看過できないのは、身の回りがいつもこの疑念に満ち溢れていることに気付いたからだ。

もう少し具体的に説明してみよう。
例えば「」について、その善悪は必ず当事者の自己都合で語られる。
すべての被害者にしてみれば戦争は悪に決まっているが、被害者を守り救うための戦争は悪とは言い切れない。
自由な発言によって傷つけられる側から見れば、その自由には賠償という責任が伴うが、その自由を奪うことで損害が発生するなら自由は擁護されるべきだ。
そもそも自由に責任が伴うことと、自由を擁護するために責任を免ずる(免責)とは、絶対に相いれない相反関係にあるので、この疑念自体を否定することはできない。
そこで、本件についてもう少し調べてみると、「札幌病院長自殺事件」の判例が見つかった。

これは、国家賠償責任と日本国憲法第51条の国会議員の発言の免責特権に関して争われた裁判で、1985年に国会で議員が病院院長の破廉恥行為等を取り上げたところ、翌日当該医師が自殺し、妻が国と議員に対し損害賠償を求めて訴えたが、1997年に最高裁で棄却された。
事件や訴訟の詳細については省略するが、争点となった憲法の免責特権と国家賠償責任が、まさに先ほど述べた相反関係にあることは興味深い。
ただ最高裁の判断は、原告の夫の死は「国家賠償法」と「憲法が定める免責特権」のいずれにも該当しないという寂しい内容で、「被害者は気の毒だが加害者に罪は認められない」という当事者主義によるものだった。
結局、憲法の定める免責特権の意義についてはもちろんのこと、その是非についても語られることはなかった。

もっと条文を正しく読むべきだと、僕は思う。
憲法第51条の条文は「両議院の議員は、議院で行った演説、討論又は表決について、院外で責任を問はれない。」とあり、免責の対象を「議院で行った演説、討論又は表決」、免責の場を「院外」と定めている。
つまり、「院外」で行ったことは免責されず、「院内」では責任を問われることになる。
院外のインタビューで院内での失言を繰り返せば、その責任からは逃れられず、院内での不適切な発言に対する院内の処分は免れないわけだ。
、自分を含め多くの人がこのルールを知ろうともせず、当事者の思いをぶつけ合うのが現実だ。
その上、そこに多数決が適用されて大勢の思い込みが正義となり、社会の歪み(ゆがみ)が正当化されていく。あたかもルールを無視したスポーツのように、好都合の多数決が欠陥だらけの正義を醸成している気がする。

僕の昔のレパートリーに「what game shall we play today(今日は何のゲームをしましょうか)」という曲がある。
Look around you my people,
if you look then you will see, How to love.
Life is paradise, All together, What game shall we play today?
まわりを見てみよう。仲間がいるね。
見てるだけで愛し方もわかっちゃう。
人生は楽園だよ♪ 一緒に何して遊ぶ?

ルールを知れば、社会も楽しいゲームになるよ。