なぜのなぜ

僕はいつも「なぜ(why)」が気になる。
なぜなら、僕の問いかけや提案に対する最も多い反応が、「なぜ」という言葉だから。
だが、冷静に考えてみると、それは違うようにも思える。
「なぜ」という言葉が相手から返ってくる前に、相手から「なぜ」と問われることを前提に物事を考える自分がいる。
つまり、必ず「なぜ」と問うのは自分自身であって、相手ではない。
もしかすると、何事にも「なぜ」と感じる僕だからこそ、相手もそう感じるのではないかと決めつけているのかもしれない。
自分のことを、他人に転嫁することで楽になるならまだしも、転嫁しきれず楽にもなっていないのが現状だ。
現に冒頭で「僕はいつも・・・気になる」と白状しているではないか。

今日はいきなりボヤキからスタートしたが、これは僕の自慢でもある。
「なぜ」という疑問を常に持つことは、僕の生きる原動力だ・・・と断言できることが僕の自慢だ。
そもそもボヤキや不満とは、そこに満足しない自負の表れだ。
疑問を持つのは、その答えを求めている証であり、すでに想定している答えと現状との相違を感じることだと思う。
だが僕の場合、答えを想定できずとも、反射的に「なぜ」という疑問を持つ。
つまり、全ての物事には「なぜ」があり、それを突き止められなくても「探すこと」が僕にとっての生きることに思える。
もちろん「疑問」とは「なぜ」だけのことでなく、なに?、どうやって?、いつ?、どこ?、だれ?など様々ある。
だが、それらの中で「なぜ」は特別だ。

通常、疑問と答えの関係は、一つの物事を異なる言い方で言っているにすぎない。
「あなたの名前は何(what)か」という疑問に対する「私の名前は松村拓也」という答えは、「名前(言葉)」を「何」と仮置きしているにすぎないし、「1+1」に対する「2」という答えは「=」という記号で置き換え可能を示している。
「いつ」、「どこ」、「だれ」は、時間・空間・人間という現実世界の3要素に関する置き換えだし、「どうやって(how)」は状態Aから状態Bへの変化プロセスを指す疑問だ。
ところが「なぜ(why)」だけは、そう簡単には説明(定義)できない。
あえて説明するならば、「何かに対しどう感じるか?」とでも言うしかない。
「すべてのものを対象とする、あらゆる主体の感じ方」なので、あらゆることが答えになり得る上に、客観視することができない。

なるほど・・・白状すると、今初めてうまく説明できた気がする。
「どうやって(how)」が客観的プロセス対し、「なぜ(why)」は主観的プロセスを示す。
「どうしておなかが減るのかな」という歌があるが、「1番:けんかをすると減るのかな、仲良くしてても減るもんな」の「どうして」は「なぜ(why)」に思えるし、「2番:おやつを食べないと減るのかな、いくら食べても減るもんな」の「どうして」は「どうやって(how)」に思えるのはそのためだ。
つまり、英語では主観のwhyと客観のhowを明確に区別しているが、日本語ではこの区別があいまいだ。
だから僕は、この議論をくどくどと繰り返しているのではないだろうか。

でも、この気づきは僕の最大の疑問に立ち向かう勇気をくれた。
それは、「なぜはなぜ、いくら繰り返しても終わらないのか」という疑問だ。
僕は、そしてを目指す人に「なぜそれを目指すのか」と問い続ける。
例えば「お金を儲けたい」と言う人には「なぜ儲けたいのか」、「人を喜ばせたい」と言う人には「なぜ喜ばせたいのか」という具合に、この問いは果てしない。
だが、この問いかけを繰り返すうちに、当事者あるいは双方が「なるほど」と気づく瞬間があり、そのおかげで僕は感謝されることになる。
恐らくその瞬間とは、当事者が答えを見つける瞬間であり、ぼんやりとしていた思いが明確化する瞬間だと思う。同時にそれは、自分が誰かと思いをする瞬間であり、「自身と共有する(気づく)」瞬間だ。
つまり、主観が客観化する瞬間と言って良い。

このブログは僕にとって、常に疑問から目を背けず直視しながら答えることで、力づくで気づきを生み出すチャレンジだと思っている。
今日もまた、日々集めている疑問の中からネタ探しをするうちに、疑問そのものに対する疑問「なぜのなぜ」に捕まってしまった。
この疑問は面倒だから、違う疑問にしようと思った瞬間「なぜ」という僕のスイッチが入ってしまった。
そして悪あがきしたこの数時間、僕は生きていることを強く感じた。