カーリングの価値

いろいろあった北京オリンピックが、ついに閉会した。
存在感において、今やアメリカをも凌駕する中国での開催ということで、外交的ボイコットやコロナ対策など開催前から物議をかもした大会だった。
さらに、開会式には国家として参加できないはずのロシアからプーチンが出席したり、所在不明だった中国の女子テニス選手とバッハ会長が姿を見せたり、不可思議なことばかり。
そして、肝心な競技においても、優劣や勝敗が見えないところで決められて、様々な問題を引き起こした。
とはいえ、このイベントの素晴らしさは否定できない。
すべての国の代表を受け入れるだけでなく、いがみ合う紛争当事国同士でさえ、選手たちは交流できる。
この素晴らしさゆえに、そこに巣食い食い物にする者たちを、排除どころか増長させているようにも思える。

一方で、この大会はスポーツ競技の進歩がもたらした構造的な問題を浮き彫りにした。
僕が気になる主な事件を列挙するとこんな感じ。
スキージャンプ高梨選手のスーツ違反・・・道具の問題。
スノーボードハーフパイプ平野選手の採点・・・採点の問題。
フィギュアスケートワリエワ選手のドーピング・・・不正の問題。
フィギュアスケート羽生選手の転倒と氷の穴・・・整備の問題。
スポーツは、相手を傷つけない平和な戦争だと僕は思う。
世界平和を実現するためには、戦争を無くすのでなく、戦争を破壊や殺戮を伴わないスポーツに変えればいい。
だがそのためには、誰の眼にも分かりやすい「公平な勝敗」が必要だ。
これらの問題は、この「公平=誰もが平和」を脅かしている。

例えばスキージャンプのスーツなど、道具は全員が同じであれば問題ない。
それを、道具の良し悪しを競技に持ち込むことで、メ-カー同志を競わせるスポンサーシップがプロ制度だ。
結局選手のプロ化は、道具メーカーや興行主が利益を競う競争だ。
採点はルールの問題だが、各国が審判を出し合うなど、国同士の駆け引きが競技を左右する。
ドーピングは、指導者を含めた勝敗に関わる不正行為という意味で、八百長に似た犯罪行為。
そして、氷の穴に象徴される環境整備は、運(偶然)と実力(必然)と勝敗の兼ね合いだ。
こうして課題を整理していくと、まさに「公平=誰もが平和」の意味を考えさせられる。

僕は昨日、女子カーリングの決勝をテレビで観戦しながら、ああだこうだと文句を付け、選手たちを褒めたり叱ったりしながら、ふと気が付いた。
この競技、案外わかりやすくフェアで、素晴らしいスポーツかも知れない。
なぜなら、結果は見れば一目瞭然だし、ドーピングや道具の違反なども考えにくい。
道具は、全ての競技者が使いまわすし、氷コンディションの良し悪しも双方に平等だ。
考えれば考えるほど、よくできた競技だと思うし、銀メダルという結果も、単なる「今回の結果」として素直に喜べる。
そもそもスポーツの原点は、こういうものだったのではないだろうか?

もちろん体格の違いや体力の差など、人間は格差だらけで不平等な存在だ。
だが、多様な競技を行うことで、多様な勝敗を作り出し、それらを補う工夫によって新たな平等を生み出してきた。
例えば、盲目の人は普通のサッカーで勝てるはずがないが、目隠しするブラインドサッカーでは立場が逆転する。
世界保健機関(WHO)は、1980年に障害の分類として、個人の機能障害(impairment)、そのために生じる機能面の能力障害(disability)、その社会的結果である社会的不利(handicap)という3つのレベルを示した。
競技とは、まさに社会的不利を解消するルールを作ることで、能力を発揮する喜びを産み、その結果機能障害の軽減や緩和をもたらす「平和な戦い」なのかもしれない。