手伝うと助ける

僕の活動は誰かを手伝うことであって、助けることではない。

例えば、自分の答えを探すのを手伝いたいと思うけど、教えてあげようとは思わない。

その答えをたまたま僕が知っていても、絶対に教えない。

なぜなら、答えを教えると自分で答えを考えなくなるので、それは良くないことだと思う。

でも、もっと大事なことは、僕の知ってる答えでいいのかどうか、僕には絶対にわからないということだ。

さらに言えば、「教える」という行為そのものが、その人のためになるのかすら、わからないし自信もない。

それに比べると、手伝うことの方が、確実に相手の役に立つ。

「手伝う」とは、その人の手に負えないことを、その人の代わりや一緒にやることだ。

一緒に答えを探すことが手伝うことで、答えを教えることは助けることになるだろう。

だがもしも、その人が答えを探しているのでなく、答えを見つけられるようになりたいなら、答えを教えるのは助けどころか邪魔になる。

先ほど、僕の行為が助けになるかどうかわからないと言ったのは、まさにこのことだ。

その人が何を求めているのかを知るためにも、まずは手伝うことで、寄り添ってみる必要があると思う。

「手伝う」と「助ける」を簡単に見分ける方法がある。

それは「手伝う=自動詞」と、「助ける=他動詞」の違いだ。

「手伝う」は相手と一緒に同じことをするので「手伝われる」という受け身はないが、「助ける」は相手に対してすることなので「助けられる」という受け身がある。

「教えられる」という受け身があるから、「教える⇒助けること」だが、「学ばれる」という受け身が無いので、「学ぶ⇒手伝うこと」というわけだ。

もしも相手が、自分の答えを探しているのでなく、僕の意見を求めているならば、「一緒に考えよう」などと手伝うことはむしろできない。

「求められる」という受け身があるので、求めるに対して与えることはできても手伝うのは難しい。

こうして考えてみると、他動詞でなく自動詞を尊重する僕自身の存在に、今気づいた。

それは、僕が手伝うことで、僕の助けを必要としなくなるのはもちろんのこと、更に僕の手伝いも必要としなくなるようにするためだ。

なぜなら、僕の目的はや拡大でなく、存続そしてだから。

21年前に父から引き継いだ建設会社はしたが、僕は意地になって仕事を継続し、その精神を引き継ぐ会社を再生した。

もちろん負債の責任を負う僕は、新会社の経営を担うことはできなかった。

でも、5年間懸命に「手伝って」退職した後も、仕事は大変だが、この会社は無借金で元気に戦っている。

「僕の助けも手伝いも要らない状態」で継続していることが、僕の誇りだ。

これからも僕は、新たなチャレンジを手伝い続けるだけでなく、自分の事業も誰かに引き継いでいきたい。

持続や永続とは、そうすることでしか、絶対に実現できないと僕は思う。

実をいうと、僕が月額1万円で手伝うのも、そのためだ。

「お金の切れ目は縁の切れ目」というけれど、僕にお金を払いたくなくなる時が、まさに手伝いを必要としなくなる時だと思う。

「お金=手切れ金」は、まさに僕の口癖だ。

有償の助けや手伝いを必要としないとは、無償の助けや手伝いが永続する仕組みを実現することではないだろうか。