8年目の3.11を迎えるにあたり、あの時の自分の映像を振り返った。
https://youtu.be/obARfT5XHJ8
あの日は、せたがやかやっくという起業支援事業の活動日に当たる金曜で、三軒茶屋の世田谷区分庁舎の中にいた。
週初めの日曜日に初めて開催した「せたがやソーシャルビジネスコンテスト」の結果を振り返り、冊子にまとめる作業をやっていた。
激しい揺れが続く中、しばらく庁舎内は騒然となったが、やがて揺れが収まると誰もが平常業務に戻った。
僕は神戸の地震を思い出し、三軒茶屋を通る一本足の首都高3号線が倒れたのではないかと思って即座に確認に出かけたが、すでに国道246号線は平常な状態に戻り、高速道路も無事に立っていた。
しかしその後、刻々と入ってくる東北地方の惨状や、迫りくる津波の映像に誰もが驚愕した。
僕は、M君に原付バイクを借り、まちの様子を見ながら帰宅することにした。
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夕方、すでに大渋滞は始まっていた。
多摩川を越え郊外に行くにつれ、まちは停電エリアが多くなり、信号機が止まって混乱する交差点が増えていく。
横浜郊外の自宅に着くころには、すでに町は真っ暗で、外出先の母と連絡が取れないカミさんはヒステリックになっていた。
さらに追い打ちをかけるように飛び込んできたニュースが、原発の危機的状況だった。
翌12日には、1号機の建屋が水素爆発で吹っ飛んで、大量の放射能が放出された。
この時、「日本の破たん」を感じたのは僕だけではなかったと思う。
もしもこれが外国の出来事だったら、誰もが破たんを確信すらしただろう。
だがそうならなかったのは、ここが自分の国だから。
自分の破たんを実感できる人は、余りいないと僕は思う。
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だが僕は、「日本の破たん」を「感じる」を越えて「確信」した。
それは僕自身、倒産という破たん経験があるからだ。
会社を潰さないように経営することが経営者の務めだという考え方が、会社の破たんを考えない言い訳に過ぎないことを僕は知っていた。
だから、破たんという終わりは、むしろ「次」の始まりであることを経験した僕にとって、「日本の破たん」を嘆いている暇はない。
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そして、自然災害という破たんの理由は、外から見ればわかりやすい「良い理由」だと僕には思えた。
1999年に僕の会社は倒産したが、メインバンク(東京相和銀行)の経営破たんはそのきっかけに過ぎず、根本原因は銀行依存の経営体質だった。
でも、この破たんを説明し協力や救済を仰ぐには、メインバンクの破たんというきっかけが大いに助けとなり、今となってはその銀行に感謝の気持ちさえ持っている。
自然災害は確かに残酷だが、自然を憎むのは生みの親を憎むのに似ている気がする。
自然には恐れと感謝あるのみだ。
災害の「戒めの面」に着目することこそが、再生への道ではないだろうか。
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震災後の土日を、日本中の誰もが津波と原発に心を揺さぶられながら過ごしたと思う。
その結果僕は、翌14日の月曜日にカミさんといっしょに家を飛び出し、三軒茶屋の不動産屋を訪ねた。
そして、その日のうちに駒沢大学駅近くで、店舗利用可能な1階の空き物件を見つけ、仮契約を済ませた。
これが、起業する家「アントレハウス駒沢」の始まりだ。
日本を再生するのは、起業家の力に違いないと確信した僕は、起業家を養成する事業に命をかけようと決意した。
結局予算がつかなかった「せたがやソーシャルビジネスコンテスト」も、失敗と諦めず手弁当で継続することで、多くの起業家と知り合うことができた。
その後巡り合った「笑恵館」というプロジェクトも、ここで出会った起業家仲間たちの協力が無ければ実現しなかったと思う。
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命がけとは、死ぬその日までやり続けたいと思うこと。
僕にとっての3.11とは、そんな覚悟を決める衝撃だったのだと今思う。
だから、失敗や破たんを終わりでなく始まりに変換する作業だと、僕は確信している。