無償から公共へ

先日テレビで「無料食堂」が紹介されていた。

困った人に、無料でとんかつをおごる店主のことが話題となり、今ではそれを応援したいという来店者が増えて売り上げが増えているという。

これこそが、僕の目指す「新しい公共」の姿だ。

「新しい公共」とは、地域の住民やNPOが主体となり公共サービスを提供する考え方のこと。

これまで、官が主体となって公共サービスを担ってきたことの見直しだ。

そのきっかけとなったのは、ギリシャのように政府が失業問題を抱えたり、リーマンショックのように民間の失策が社会全体にダメージを与えるなどの問題だ。

公共サービスを官だけに依存したり民の社会的影響力を放置してきたことが、これらのを招いたことから、今後は民間が主体となる公共サービスの参入を期待している。

だがこの議論はでたらめで、僕には単なる「官の責任逃れ」にしか思えない。

そもそも官の役割は、民のに対処し、それをフォローすることのはず。

民が官に税金を支払うのは、社会というセイフティネットを作るため。

ところが、こうした役割を「官に依存することが間違い」とは、一体どういう意味だ。

だったら「官」は、何のためにあるというのだろう。

僕は「公共サービス=無料サービス」と考える。

道路や公園は全て無料だし、選挙や義務教育もお金をとらないのは、公共がすべての人を対象とするからだ。

より良いサービスを必要とするなら有償でも構わないが、無償で受けられる最低のサービスを「公共サービス」と呼ぶべきだ。

だとしたら、今の政府はどれだけ公共サービスができているだろう。

たしかに、警察や消防など様々なサービスが無償で提供されている。

だが、医療や介護、子育て支援など福祉と言われる分野はおよそすべてが有償で、その上サービスが行き届かずに、多くの人たちが順番を待っている。

かつて日本の医療保険は1割負担からスタートしたのだが、今では3倍に値上げされている。

たとえ最低限の医療でも、無償で提供する国があるというのに、なぜ日本にはそれができないのか。

それは、そもそも公共サービスを無償にする気が無いからだ。

日本の行政サービスは、基本的に助成制度で出来ていて、税金で回収した資金を社会に再配分することが行政の役目になっている。

かつて福祉政策などには目もくれず、道路やトンネルばかり作っていた自民党が、赤字国債を出し続けてまで福祉に資金を回すのは、その使い道が国民の同意を得やすいからに過ぎない。

結局は、介護だろうと子育てだろうと、サービスを提供する事業者の支援を公共サービスと呼んでいるにすぎない。

もしも政策がうまく行けば、課題は解決できるかもしれないが、失敗すればそれまでのこと。

それでは、ギリシャと何も変わらない。

一方で、新しい公共の担い手とされるNPOや公益法人の事業分野を、国が定めていることもおかしい。

これはまさに、官のできないことを民に依存している証拠だ。

官の役割は、民に出来ないことのはずであり、これでは本末転倒だ。

こうなってしまう原因は、助成制度だと思う。

結局お金を払うということは、ビジネスに帰結するだけのこと。

ビジネスの中に、無償のサービスを盛り込むことこそが、公共サービスだと思う。

その意味で、警察が交通違反者から罰金を取ることで、信号機を整備するのは

公営ギャンブルや宝くじが公益事業を行う仕組みは、世界に類を見ない規模で行われている。

だが、これらが有償サービスを助成しても、何の意味も無いと思う。

ビジネスに無償サービスを組み込んで、それが社会のセイフティネットを形成することこそが、「新しい公共」ではないだろうか。

儲かるビジネスは、困った人を助けることで利益を圧縮すればいい。

「新しい公共」は、節税することで生み出したい。