9月1日は防災の日ということで、今年も様々な防災イベントが開催されたようだが、昨日テレビを見ていたら、「タワーマンションには、どうして避難階段が2つしかないんですか?」という言葉が耳に飛び込んできた。
総戸数1,000戸を超すような大規模タワーマンションの住民にしてみれば、幅1.2メートルの避難階段が2つしか無いというのはどうにも理解できないという。
もしも片方が壊れたり、けが人などが道をふさいだりしたらどうなるのか。
それに対する納得のいく回答は誰からも聞くことはできない。
建築基準法によれば、どんなに規模の大きなマンションでも「2か所以上の避難階段」があれば事足りてしまうのだ。
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基準法が規定する「2か所」とは、あくまで「2方向」であることが重視されている。
そもそも各住戸からの避難経路は廊下側とバルコニー側の2方向で、バルコニーには避難ハッチなどが設置されているのだが、居室面積が200㎡以上若しくは6階以上の階においては、2つ以上の直通階段が必要となる。
ただ、2方向と言っても、一定の重複距離以内に設置されていれば許可されるため、タワーマンションにみられる周回型の廊下などでは、2つ並んでいてもクリアできる。
実際、都内の主なタワーマンションの平面図を確認すると、すべてのマンションが2階段である上、多くのマンションが「2重らせん階段(1か所の階段室に2つの階段が収まっている)」になっており、基準法を越えた階段を設置している例は見つからなかった。
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建築基準法は、こうした巨大タワーマンションに対応できていないことは明白だ。
理論上規模や階数に制限が無いため1フロアに20戸で50階建てであれば1,000戸のマンションになってしまうのだが、これが80階になろうと、2,000戸になろうと現状では何の制限もない。
実際、デベロッパーにしてみればこうした効率の良さが超高層建築の魅力となる。
だが、ここで問題にしたいのは、タワーマンションの避難経路が建築基準法を根拠に設計され、その安全性については誰も検証せず責任も持とうとしない現実だ。
実は、僕がこの声に反応したのには訳がある。
青山1丁目の交差点に立つホンダ本社ビルが竣工したのは、1985年僕が28歳の時だった。
設計を担当した設計事務所でチーフをしていたMさんから、竣工時に伺った苦労話の中に、この避難階段の話が出てきたのを今でも思い出す。
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当時のホンダは、創業者・宗一郎氏の「本田イズム」がバリバリ健在で、世界で一番注目を集める自動車メーカーだった。
そこで、最初の設計打ち合わせに臨む際、Mさんは設計条件や要望を整理するため、渾身のラフプランを持参し、青山の交差点に面し華やかに演出された1階フロアやシャープなガラス張りのデザインを提案した。
ところがそのプランを見て、ホンダ側の担当者からは「車やバイクユーザーのお客様を迎えるのに、1階フロアに余計な段差は無用」とか、「避難階段はなぜ2つしか無いのか、あなた方はこのビルの安全性能をどう考える」といった指摘が飛び出した。
そこでM氏は建築基準法に基づいて避難階段を計画したと語った瞬間「あなた方はホンダの本社ビルを作るとはどういうことが、まるで解ってない」といきなり怒鳴られたという。
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面食らったM氏はあわてて「申し訳ありません、具体的に教えていただけませんか」と尋ねると、「ホンダは世界で一番安全な車を売る会社なのに、その本社が建築基準法などという最低レベルの設計でいいと思うんですか?」と切り返された。
この言葉を聞いた瞬間、M氏は心の底から恥ずかしいと感じたそうだ。
そしてすかさず勇気を振り絞り、「申し訳ございません、ご指摘の通りです。ちなみにホンダとしては何か所が妥当とお考えですか?」と尋ねたところ、「そうですね、最低四隅に1つずつで4か所ですね」という答えが返ってきた。
そこからM氏の戦いは始まった。
「ホンダの言う4か所以上の安全性を実現しなければ、建築家の存在意味はない」と、いきなり崖っぷちに追い詰められたと、彼は振り返る。
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その結果、本田ビルはどうなったのか、あなたも是非見て欲しい。
なんと他に類のない前面避難バルコニー付きのオフィスビルが誕生したのだ。
当初、ホンダの要求通り四隅に避難階段を配置したが、交差点に面した角の階段だけは回避すべく全面避難バルコニーにして、避難だけでなく地震時のガラス飛散や日常のメンテナンスに対応した。
さらに角を取って丸く削ることにより、交差点の見通しを確保し、4階段に勝る安全性を確保できた。
こうしたいきさつを知らずにこのビルを見る人の目には、「なんともホンダらしからぬ、やぼったいビルだ」と映るだろう。
だが実際には、これをきっかけにホンダと設計者の信頼関係は高まり、建築家の発想ではありえない工夫やデザインが随所で実現する快作が実現した。
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あくまでホンダがこだわったのは、「最低と最高」の違いだと僕は思う。
避難階段の数が「2から3」になったのは、1つ増えただけのことではなく、最低基準から最高の工夫に変化した結果なのだ。
それは、建築基準法が最低基準であることに加え、それに甘んじて何も考えないことがもたらす「思考停止」を意味している。
こうした法令や、様々なルールとは、「最高の理想を実現するために決められた最低の基準」であることを忘れてはならない。
「考えないためのルール」ならば、そんなルールは無い方がましだと僕は思う。