「自立とは、依存先を増やすこと、希望とは、絶望を分かち合うこと」とは、新生児仮死の後遺症により脳性まひの障害を持つ熊谷晋一郎さんの言葉だ。自立とは依存の反対、希望とは絶望の反対くらいに考えがちだった僕にとって、この言葉は驚きだ。それは、一見逆のことを言っているにもかかわらずそのまま直接受け容れられる。いやむしろ、この説明の方が正しいとすら思わせてくれるからだ。僕はこの記事(http://www.tokyo-jinken.or.jp/jyoho/56/jyoho56_interview.htm)に感動し、いたたまれなくなって即座にFBでシェアしてしまった。感動するとは、感じて動くことだから、聞いたことを言いふらす行為はまさに感動の典型だ。熊谷さんの言葉に関しては、ぜひ彼の記事を直接読んでいただくことにして、僕はせっかく生け捕りした「自分の感動」について、もう少し説明を試みたい。
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まず驚いたのは、この言葉の強烈な説得力だ。聞いた瞬間に「そりゃそうだ」と腑に落ちた。「新生児仮死の後遺症により脳性まひの障害」がどのようなものかをあまり知らなくても、熊谷さんの依存と絶望に満ちた人生は、容易に想像できる。それがどれくらい深いのかが問題なのではなく、「想像できない深さ」ということで僕には十分だ。僕がこれほど的確に説明できないのは、ある程度自立し、希望を持って生きているため、身近すぎて客観視できていないのだと思う。僕には破たんや倒産の経験があるから、周囲の人より的確に説明できるのと同じことだ。月並みだが、答えを知りたければ現場に行き、当事者に聞くべきなのだろう。
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そして同時に、この言葉を聞いた瞬間に感動できた自分をちょっと見直した。そして、僕の投稿をすでに5人がシェアしていることも見逃せない。5人が僕と同じ行動をしたのは、同様の感動をした証だと思う。なぜ他人の言葉に感動できるのか、それはその人と自分を重ねることができるからだ。こちらが相手の身になるか、相手に自分を映してみるか、それはどちらの場合もあるだろう。だがいずれの場合も、他人の言葉を漫然と聞き逃さず真摯に受け止めた理由があるはずだ。なぜ僕は「自立、希望」という言葉に、こうも過敏に反応したかを胸に手を当てて考えてみると、「普段から気になっていた」としか考えられない。つまり、「自立とは何か、希望とは何か」の答えを普段から探していたのだと思う。そして、同様の人が他にもいた、つまりこの問いは、僕だけの問いでは無かったということだ。
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そしてもう一つ、熊谷さんのことにも触れておきたい。彼もまた、「自立、希望」の答えを探していたに違いない。これらの言葉とは対極の、依存と絶望に囲まれているかもしれないのに、彼はこんなに分かりやすく答えを提示した。しかし僕がここで言う対極とは「遠い向こう岸の反対側」であるのに対し、熊谷さんは「身近な背中合わせ」の対極を見ていたようだ。例えば「自立=依存のない状態」とすれば、僕は「依存する必要のない状態」を考えてしまうが、熊谷さんは「依存先を探す必要のない状態」を思い描いた。「依存せずにいられない人」が「依存するな」と言われたら、「はい、そうします」ではなく、「はい、他をあたります」となるわけだ。
これが僕の気づきだ。僕はここに感動した。
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気づきは世界を一瞬で変えてしまう。僕の中で「自立」の定義が変わってしまった。僕だって自立なんかできていないし、そもそも「誰にも依存していない状態」など、そう簡単には実現しない。「自立」とは、自分でなく相手に対し「依存されるのを拒否する慣用句」だったのかもしれないと、今では疑い始めている。さては、できもしないことを「理想」に掲げ、できない言い訳を社会全体で正当化しようとしているのではないだろうか。熊谷さんはその逆に、「自立」の実現を目指している。「依存先を増やすこと」とは、彼が自立を実現するための具体的方法だ。自立への具体策を講じずに言い訳ばかりしている僕にとって、この言葉が痛く刺さるのは当然のことだった。あまりの痛さに僕は悲鳴を上げ、あなたに話さずにはいられなくなった。
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これが今回生け捕りにした「僕の感動」の内容だ。
また次の感動を捕まえるため、僕は疑問の網を張り、聞き耳を立てながら進んでいこう。