あえて悪い話をしよう(夢高校から)

およそすべてのビジネスには「契約」がつきものです。皆さんも、何らかの形で契約書に署名された経験をお持ちだと思いますが、そこには何が書いてあったか覚えてますか?

契約書には、契約の目的や方法、期限などの「契約内容」の記載のあとに、必ず「解約条件」や「違約条項」そして「免責事項」など、契約の実行を阻害する「ありとあらゆる悪い想定」が書いてあります。これは決して契約相手を疑ったり、恐れているからでなく、双方が考えられる悪い状況をあらかじめ想定し、それに対する対処法を事前に取り決めるためであり、契約の履行に全力を尽くそうという双方の決意の表れだと思います。ところが現実社会を見回すと、このビジネスの基本原則がかなりいい加減に扱われています。

東北大震災・原発事故以来「想定外」という言葉が頻繁に聞かれますが、これがいい例です。原発の建設は、国と原発事業者が地域住民を巻き込んで進めてきた巨大ビジネスですが、その契約がいかにいい加減なものだったのか、容易に想像ができます。

巨大津波を想定しない海岸の原発は、交通事故を想定しない生命保険のようなものです。まだ続く海水汚染の問題に対しても、とても最悪を想定しているとは思えません。このまま太平洋全体を汚染してしまった時、私たちは世界に対し、何と申し開きするのでしょう。

こうした状況を生み出す原因は、私たち自身にあります。それは「いやなことは考えたくない」という私たち自身の本能に由来します。たとえば「一人暮らしの老人が餓死しているのに誰も気づかず1か月後に発見された」というニュースを聞くと、「気の毒だ」とか「自分ならそうはならない」とは考えますが、「餓死したの自分だったら」という悪い想定はなかなかしません。そこで、先日の「ナマイキ高校生養成講座」で、あえて受講生の皆さんにこのことを訪ねてみました。「あなたにとって、『餓死』とはいやな死に方だろうか?」と。

餓死をするかしないかで言えば、餓死したいという人はいないでしょう。でも、「餓死」と「他の死に方」を比べてみようとなると、話は違います。事故で突然死ぬより、病気で苦しんで死ぬより、自分で場所を選んで静かに死ねるなら悪くないかもしれない…という話になりました。

悪いことは起きるより起きない方がいいに決まっています。でも「悪いことは起きない」という前提だけでものを考えるのは、ただ可能性や選択肢を減らしているだけではないでしょうか? 乱暴に言えば、すべての選択肢の「半分」を失っているのかもれません。

これから大人になる高校生諸君! いいことと悪いこと・どちらも果敢に想定し、これまでの2倍の視野をもって、2倍の選択肢のなかから君たちの未来を選べばいい!

と、僕は叫びました。

ナマイキ高校生養成講座 最終日は8月27日

http://setagaya-school.net/Event/8328/

問い合わせ先 nande@nanoni.co.jp 松村まで

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≪後記≫

先日4000本安打を打ったイチローが、3999本目と4000本目は同じ価値だけど、周りの人たちが特別な時を作ってくれる・・・と言ったのを聞いて、4000本全部を打った当人ならではの言葉だし、イチローはいつもこうだなって思いました。

灼熱地獄の夏も、ようやく終わりに近づいてきたような。夜もエアコン無しで眠れるようになってきました。でも、節電の話はどこに行ってしまったのか? 社会に「一貫性」が感じられないのは気のせいではではないと思います。

色々なプロジェクトに首を突っ込み、調子のいいことを吹いて歩いている僕にとって、この一貫性はすごく大切なことなんです。僕にとっては、一貫性こそが自分自身なのかも。だから「一貫性の無さ」には敏感に反応する自分を感じます。

では逆に、今の社会で何が一貫しているのか? それこそが社会の本心、本音なのかもしれません。ちょっと思わせぶりですが、皆さんどう思いますか?

ではでは!

(まつむら塾より転載)