労働とビジネス

最近「働き方改革」という言葉をよく耳にする。

「1億総活躍社会」と言ったものの、活躍したくても社会がそれを受け入れないという批判が爆発し、ついに政府が重い腰を上げた格好だ。

テレビでも多くの番組がこの課題を取り上げ、相変わらずとんちんかんな議論を展開している。

だが、この課題そのものは大変重要かつ面白い問題であることを忘れてはならないと僕は思う。

そこで今日は、この問題の面白さについて、僕の意見を述べたいと思う。

 

まずこの問題の面白さは、そこから起因する社会問題を「経済成長、子育て支援、社会保障」と位置付けていることだ。

現在の日本は、一言でいえばこの3つの行き詰まりでお先真っ暗なのだが、「働き方改革」はこれらすべてを一気に解消する一石三鳥のウルトラCだという。

だから、議論はまさに「総論賛成各論反対」の様相を呈し、誰もこの改革を否定しようとは言わない。

だが、いずれの課題についても具体論になると反対意見が噴出し、賛成派はまるで理想を掲げる原理主義者のような扱いだ。

その論争の中心にあるのが、この改革の二本柱の「同一労働同一賃金」と「労働時間の短縮」だ。

 

「同一労働同一賃金」は、働き方に関する差別の問題だ。

「同じ仕事には同じ給料を払うべき」という理屈は一見正しそうだが、実際には正規・非正規などの雇用形態や勤続年数、学歴、性別などによる格差が存在する。

その結果、社会は高学歴で勤続年数の長い男性正社員以外の人たちには、平等に活躍の場を提供しているとは言えないというのがこの問題の核心だ。

しかし、優遇している人や優遇されている人たちにも「一見同じ仕事に見えても、仕事の出来栄えやそれ伴う責任が違う」という言い分がある。

つまり「同一労働とは何か」という問題だ。

 

以前、オランダから一時帰国し日本で就職した女性からこんな話を聞いたことがある。

「正社員って意味が解りません。お茶くみや掃除などの雑用から、ダメ上司の尻ぬぐいや欠勤者のフォローまですべてが業務範囲だなんて、こんな仕事じゃ評価もデタラメ、キャリアにもなりゃしない。」と。

確かに日本企業の正社員にとって、会社の命令なら何でもやる忠誠心こそが生命線だ。

武家社会における家臣のポジションに見事に重なるイメージだ。

欧米では業務分掌がA4数十ページにわたるマニュアルに記述され、職責の遂行に加え、他職の不可侵(他人の仕事を取らない)にも厳しい。

 

労働の範囲が曖昧だと、訓練や教育にも影響する。

日本の大学が学歴だけを提供する遊び場に化しているのも、失業者に対する職業訓練が再就職に寄与しないのも、そもそも「労働のメニュー化」が進んでいないためだと思う。

例えばスイスでは、中学を卒業すると約7割が職業訓練校に進学し、300種に及ぶ職種を習得することができ、就職時にはそのライセンスが求められ、国が定めるガイドラインに沿って給与が支払われるという。

つまり、「同一労働同一賃金」とは、個別の企業の中で雇用形態や男女間の格差を無くすといった「チマチマした話」でなく、仕事そのものの貴賤を無くし、すべての仕事にプロフェッショナルを要求することではないかと僕は思う。

 

そしてもう一つが「労働時間の短縮」だ。

現状、「労使の代表が合意すれば何時間でも残業できる(36協定)」という労働基準法を骨抜きにしているザル制度に、上限を定めるという議論が盛んにおこなわれている。

この問題も総論賛成で、真っ向から反対する人は見当たらないが、実際には多くの対立が渦巻いていて、とても面白い。

そもそもこれまでこの制度が維持されてきた背景には、「たくさん働かせたい人」と「たくさん働きたい人」の存在があった。

日本では、およそすべての経営者が「安くたくさん働かせるため」に社員を雇ってきたのだし、多くの労働者が「収入を増やすため」に進んで残業してきた経緯がある。

忠誠心を重視する企業は兼業を禁じるため、社員が収入を増やすには昇給と残業しか道はない。

ワークライフバランス論者が「労働生産性向上」を旗印に掲げ、多くの経営者が「労働時間短縮」へと意識変革しつつあるのは理解できるが、「収入を増やしたいと願う労働者」は残業を減らしたいと願っていない。

そして、もしも同じ能力の社員より昇給しようと思ったら、より多く働きたいと願うのは当然だ。

 

この改革は、同じ能力であれば、会社は残業する社員の評価を下げるべきだということだ。

そして、より収入を得たいと願う社員がいたならば、兼業を認め、鎖をほどくことが必要だ。

なぜなら、この改革の目的は、誰もが望むだけの労働ができる社会を作ること。

誰もが労働によって収入を得て、最低限の幸福を手にすることができる社会を実現することだ。

だとすれば、それは素晴らしい改革だと僕は思う。

だがそのために一番必要なことは、真の労働をふんだんに提供することだ。

ここでいう「真の労働」とは、経営者の都合に合わせた家臣でなく、生産のための必要な燃料と必要なメンテナンスを与えられる「人的資源」のことだ。

彼らは、その作業内容に応じた時給を、成果に関係なく従事した分だけ支給されるべきだ。

なぜなら、その出来栄えや成果に責任を持つのは労働ではなくビジネスだから。

それは労働者でなく、経営者の仕事だから。

 

そこで僕の提案は、すべての仕事を「時給」に換算してみること。

時給にしたときに、納得のいかない仕事は労働とは言えない。

年俸1200万円の人は、月収100万円、20日勤務として日給5万円、8時間労働として時給6333円ということになる。

最低賃金が時給1000円で議論されているが、それは逆算すると日給8000円、月収16万円、年収192万円ということになる。

だとすれば、今回の改革のゴールは年収192万円でなんとか暮らせる社会の実現でもある。

なぜなら僕らは働くために働いているのでなく、暮らすために働いているのだから。

もしも僕のように「働きたいから働いている」とすれば、それは労働でなくビジネスや趣味の世界だと思う。

だが人生は、やりたいことをやるためのモノでもある。

労働とビジネス、この双方をうまく組み合わせて、新しい社会を作ることが、今回の改革の本当の意義だと僕は思う。