敏感と鈍感

僕は、よく泣く。
テレビで泣き、映画で泣き、時々自分で話しながら泣いてしまう。
以前僕は「泣くと笑う」というブログで、両者を安易に対比すべきではないことと、泣くことが普遍的であるのに対し、笑うことがいかに多様かを語ったことがある。
https://nanoni.co.jp/151030-6/
だが先日、映画スラムダンクを観ながら涙が込み上げてきた時に、自分がなぜ泣いているのかわからなくなった。
そして昨日は、運転免許を更新するために江東試験場に行き、違反歴のある僕は2時間の講習を受けてきた。
例によって、安全運転の心構えや法制度の改正に関する説明が続くのだが、途中交通事故で娘を無くした父親の手記を朗読した時に涙が込み上げてきて、講師が最後に二人の子供を道連れに心中した死亡事故加害者の妻の遺書を読んだとき、僕の涙腺は決壊した。

まだ若かったころ、僕はこんなに簡単に泣いただろうか。
周囲の人たちに比べれば、決して無表情な方ではなく、きっとどちらかと言えば涙もろい方だったかもしれない。
でも、泣く頻度は、年を取るにつれて確実に増えていると、僕は確信する。
それはきっと、様々な経験を重ねることで、共感できる場面が増えているのだろう。
だが、いくら経験を積んだとはいえ、スラムダンクの登場人物に自分を重ねられる訳では無いし、ましてや子供二人と心中する母親の気持ちなど理解したくもない。
これは、経験が理解の幅を広げたのでなく、単に涙腺を緩めただけなのか。
つまり、繰り返し心を動かすうちに、僕は敏感になってきたのか。

僕は自分が涙もろいことはいつも公言しているし、周囲の人たちも織り込み済みだ。
だが、だからと言って、他人から「敏感だ」と言われた記憶はほとんどない。
どちらかと言えば、多くの方から「あなたの鈍感力には敬服する」と言われている。
対義語のはずの「敏感と鈍感」が同居するのは一見不自然だが、実感としてはそうでもない。
僕自身、「敏感」と言われるよりは「鈍感」と言われる方が心地よい。
だがそれは一体なぜだろう。
涙もろくなることは、敏感になることではないというのだろうか。
実は、今日の気づきはここに有る。

もちろん僕自身は敏感で、些細なことにも鋭く瞬時に反応するし、僕を見た他人が反応することにも敏感だ。
だがその時僕は、他人の反応に配慮して自分の反応を制御したり、自分の意に反する反応をしようとは思わない。
自分が興味を持てなければ平気で相手を無視するし、相手の興味を喚起するためならいくらでも過剰に反応する。
つまり、敏感と鈍感の違いは、感受性が鋭いか鈍いかの違いでなく、自分の欲求に対して鋭いか鈍いかの違いのこと。
そもそも、自分の感受性と他人の感受性を客観視できるはずもなく、あくまで自分から見た「自分と他人」を比較しているにすぎない。

僕は、自分の考えや感じたことを他人に伝えるために、「相手に合わせ、理解できるように工夫する配慮」が足りないという意味で「鈍感」だと思う。
だが、なぜ配慮しないのかというと、その配慮で失敗したくないからだ。
実は、ここで言う「配慮」とは「変更」を意味している。
「配慮を加えた伝達」とは、「変更を加えた伝達」となり、意図しないことが伝達される恐れがぬぐえない。
「空気を読む」ことを否定はしないが「空気に合わせる」ことはしたくない。
配慮の無い伝達を繰り返すことで、いつの日か真の伝達を実現したい。
敏感になりすぎて道を外れてしまうより、鈍感に道を歩き続けたいと僕は思う。