夢という言葉には、二つの意味があるようだ。
一つは「叶えたいと願うこと」、そしてもう一つは「叶わないと諦めること」。
勘違いしないで欲しい。
決してこれは、「夢」を「叶う夢」と「叶わない夢」に分類しているのではない。
僕は「夢そのもの」でなく、夢を「願いと考える人」と、「諦めと考える人」の、「考え方」を分類している。
そもそも夢を、叶うか叶わないかで分類することには、あまり意味がない。
例えば「月に行きたい」と願うことは、昔はできもしないたわごとだったが、1969年7月16日アポロ11号によって実現された。
これは決して「月に行く」という夢が、できない夢からできる夢に「変化した」のでなく、「月に行く」という夢を諦めずに叶えようと「考えを変えた」からだ、と僕は思う。
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先日僕は、日本の医療は病気を治すことばかり考えて、減らす努力が足りないと論じた。
欧米の先進諸国では、医療は治療と予防の両輪で成り立っているのに、日本では治療医学に偏っている。
国民の健康を守るため、病気を治療することも大事だが、そもそも病気を予防することだって大切だ。
なぜ日本では、誰もが治療医学に依存するのかを、「夢」つまり「願いと諦め」を使って考える
何を目指しているのか、何を諦めているのか。
「どんな病気になっても治せる」という願いに対し、「病気を治さずには生きてはいけない」という諦めがあるとすれば、願いと諦めが対になって、確信に変わっているのかもしれない。
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だが、この「夢と諦め」には不備がある。
確かに治療もせずに全ての病気を治すのは無理だと思うが、この夢には「もしも病気になったら」という仮定が抜けている。
病気にならなければ、そもそも治療の必要すらない。
だから、治療の夢は、病気になった場合という条件付きの夢のはず。
すでに病気になっている人なら、治療で病気を治したいと願うのは当然だ。
だが、病気になる前の健康な人が、果たして病気になることを願うだろうか。
むしろ病気になりたくないという夢を諦めるのでなく、病気になることを諦めたらどうだろう。
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今、新型コロナウィルスの感染拡大で盛んに議論されている「医療崩壊」とは、医療機関がパンクして、感染以外の診療も受けられなくなることを指す。
これはつまり、「病気になること」自体を諦めなければならなくなることを意味している。
医療崩壊を克服するためには、医療を拡充するしかないという思い込みが蔓延しているようだが、病人を受け入れる側だけでなく、病人になる側のことも考えなくては片手落ちだ。
だから僕は、先日のブログで「生活習慣病を診療対象から外すこと」を提案した。
これに対し、いくつかの反論をいただいたのだが、おかげで僕は気が付いた。
日本の医療はこれから崩壊するのでなく、すでに崩壊しているのだと。
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日本の医療は、すべての人のためでなく、病気になった人のためにある。
全ての人が健康診断で病気を探し、病人になることで治療するのは、この制度をすべての人に適用するための苦肉の策に思えてきた。
生活習慣病とは、それ自体でなくそれが病気を誘発する症状を、病気としている。
かつて成人病と呼ばれたその病気たちは、老いが原因となることで、「老いという病気」を生み出した。
やがてそれが「老い」でなく「生活習慣」によるものだと考えられるようになって。名称が変化したのだが、だとすれば「不健康な生活習慣」を病気にしているにすぎない。
気が付いてみれば、「禁煙外来」は喫煙を病気にしたり、カジノをギャンブル依存症で問題視している。
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だが、ギャンブルや喫煙、飲酒は病気なのか。
肥満や運動不足、偏食や体色は病気なのか。
あえて言おう、老いや死は、忌み嫌うべき病気なのか?
これらはすべて、治療すべき病気でなく、元気に生きるための注意(予防)事項というべきだ。
誰もが病気になる社会を夢見る人はいないと思うが、多くの人が想定しているのは間違いない。
この想定こそが「願い」であり、想定を超えることが諦めを意味している。
15mの津波を想定するのは、15mまでの津波に耐えることを願い、15m以上を諦めることだ。
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そこで、医療崩壊をどのように想定するのかが重要だ。
まだ崩壊していないと主張する政府に対し、現場が悲鳴を上げるのは崩壊の基準が違うから。
これ以上悪い想定をするのはやめ、すでに破綻していると考えよう。
破綻のレベルを下げ、もっと早めに諦めることが必要だ。
だが諦めとは、そのまま放置するのでなく、違う夢を探ること。
一部の医療を諦めるのは、それらを予防に切り替えることを意味している。
夢の実現を願うのはその実現に取り組むためで、諦めるのは実現できる夢を探すため。
まず、糖尿病や高血圧を病気として治療することを諦めて、それらが誘発する病気を防ぐことを夢見るように切り替えたい。