疑問と質問

昨日久しぶりに「とは何ですか?」という質問を受け、僕はときめいた。

「やりたいことに挑むこと」と答えると、「やりたいことが無かったり、分からない人はどうすればいいんですか」と聞き返される。

この問いに対し「その答えは、あなたの中にすでにあるよ」と答えるのが、僕は、大好きだ。

これに対し、「そんなこと、何で分かるんですか?」と聞き返されれば、僕の思うつぼなんだが、昨日は「それ本当ですか?」と訊かれて、僕は意表を突かれた。

初めは「もちろん本当だよ!」とでも答えようとしたのだが、「ふざけないでくださいよ」とか言われたらどうしよう。

つまり「疑われる」ということが、意外にも新鮮なことだった。

「信じるとは、相手の言うことを本当と思うこと。」

これは「小さな島」という絵本の中で、魚の言うことを疑う子猫に対し、信じることを説明する魚の言葉だ。

僕はこの説明が大好きだし、「信じる」の話は得意だが、「疑う」についてあまり考えたことが無かった自分に気が付いた。

魚の説明を応用すれば、「疑うとは、相手の言うことを本当じゃないと思うこと」となるのだろうか。

だとすれば、次は「本当とは何か」を考える必要がある。

そこですぐに思い当たるのが、「言ってることとやってること」という言葉だ。

言ってることとやってることが違うとき、どちらが本当かわからない、もしくは一方が本当で他方が嘘となる。

だがそれは、あくまで目の前で「言と動が不一致」の場合であって、両者が違う場所や時間であれば、一致してるかどうか確かめようもない。

だから、その場でばれてしまう嘘は、嘘のうちに入らない。

その場でばれないからこそ、つまり嘘と判らないからこそ嘘になる。

「疑う」とは、「疑わしい人」の言うことを嘘と決めつけ、「信じないこと」だと思う。

では、疑わしいとはどういうことか。

安倍元首相の、資金・不正処理問題が一向に鎮火しないが、きちんと説明しないと、首相時代の発言の多くが虚偽(うそ)となってしまう。

そもそもこの問題は、安倍首相が疑われているから始まった。

残念ながら政治の駆け引きには、相手の弱みを攻めるという戦術があり、常に政敵の不正や失言を探し追及する。

去年安倍首相は、幾多の疑惑や疑念を潜り抜け、健康上の理由で名誉ある撤退を成し遂げた。

だが、それを引き継いだ菅首相は、前政権の中核を担っており、結局前政権のスキャンダルはそのまま現政権を脅かす火種として追及を免れない。

こうなると、安倍元首相を疑うことが多数の意見となり、僕でさえ「安倍さんを信じている」などと言うことはできない。

だが、この問題がここまでこじれるのば、安倍氏が一貫して「騙された側」に居続けているからだ。

「秘書からそんな報告は聞いてない」とか、「首相はそんな領収書まで自分でチェックできない」という言い訳は、結局「秘書や部下に騙された」と言っているのと同じこと。

さらに、官僚が首相を忖度(そんたく)した話だって、「官僚に騙された」と言っているに等しい。

つまり、「様々な事情があって良かれと思って騙してしまった人たちを、どうか許して欲しい」と国民に乞うている。

しかし、「神に対して相手の罪を許して欲しいと乞うキリスト」を真似る安倍氏を、僕たちは神のように許すのか。

僕には、責任を部下や天皇になすり付けてきた、戦前の日本政府と、同じ構造にしか思えない。

少なくとも政治家や経営者などのリーダーは、「騙すこと」より「騙されること」の方が罪深いと僕は思う。

今日の本題は「それ本当ですか?」と言われたことに、僕はなぜ驚いたのかということだ。

僕だって冗談で、嘘やでたらめを言うことがあり、その時「本当ですか?」と言われても、笑って「ゴメン」と謝れる。

だが、渾身の力を絞って本心を言ったのに「それ本当ですか?」と疑われては、その瞬間に体中から力が抜けてしまう。

自分の言葉が嘘でなく本当だと言う説明が、そういう嘘をつく人と自分の違いについての説明では、安倍氏の答弁と変わらない。

「本当ですか?」という疑問に対し、返す言葉は「yes」か「no」の2つしか無い。

説明とは、質問に対する答えであって、疑問に対する説明は「yesと言えない人がnoと言わない言い訳」に過ぎないと思う。

そうか、自分を疑う相手を信じて「なぜ僕の言うことを信じられないのか?」と訊けばよかった。

それが今日の気づきかな。