時代を超えること

ぼくは毎朝、NHK連続テレビ小説「エール」を欠かさずに見ている。

特に、戦意高揚を目的とする戦時歌謡の第一人者となってしまった主人公の悲惨な体験や、敗戦後の罪悪感と贖罪の想いにから必死に立ち直り、友達をも助けようとするこのひと月というものは、僕はほぼ毎朝泣いている。

なにしろこのドラマからは、感じ、気付かされることがあまりにも多いので、僕は辞められない。

もちろんそれは、主人公のモデルとなった古関裕而さんの壮絶な人生や、それに基づく巧みなストーリー、そして登場人物たちの魅力によることは言うまでもない。

でも、それ以上に僕が魅かれるのは、今現在の想いや未来の願いは、すべて自身の経験詰まり過去に基づくものなんだということを教えてくれることに思える。

そんなわけで今日僕は、『エール』というドラマから気づき、学んでいること、自分のために整理してみたい。

まず、主人公である作曲家古山裕一(あえて古関裕而とは言わない)は過剰なまでに自分を見つめ、考え込んでしまう人物だ。

自分自身が納得できないことには、絶対に妥協しないため、彼は何度も回り道をし、苦しい時間を長引かせてしまう。

だがそれは、僕にとって全く違和感のないことで、ある意味自分自身を見ているようだ。

それは決して心地よい訳ではなく、「その辛さはよく分かる」という意味だが、裕一が苦しむ姿を見るうちに、そのこだわりの理由が分かった気がする。

それは、何事も他人のせいにせず、すべて自分のせいにするためであり、僕は会社を潰した時にそれを痛感した。

自分を被害者でなく加害者と考えて、問題を起こした側から考える方が、問題解決の道が開けるという考え方だ。

次に印象に残るのは、「長崎の鐘」の作詞者から「どん底に落ちろ」と言われ、理解できずに苦しむ場面だ。

「贖罪(しょくざい)ですか」、「長崎の鐘をあなたご自身のために作ってほしくはなか」と、作詞者は自分よがりの裕一を責め立てる。

「どん底とは何か」と考え込む裕一に対し、「答えは自分の中じゃない」と作詞者はつぶやく。

そして最後に発せられた「どん底に大地あり」という言葉は、ドシーンと響くまさに答え。

全てを失った時に見える景色こそが出発点だと気づいたことで、僕はゼロから始めることが面白くなった。

僕は財務会計のセミナーをやるたびに、赤字とは唯一「収支」のことで、現実の帳簿には「マイナス」は無い。

つまり、財布や口座に穴が開いたりブラックホールができることはなく、赤字とは、自分を含む誰かが補填しているか、誰かに迷惑をかけているだけのこと。

そこで希望を持つのか諦めるのか、僕はむしろ、希望を超えて夢を持つことをお勧めする。

先週の「エール」では、甲子園の応援歌「栄冠は君に輝く」をめぐる展開となった。

主人公の裕一が歌詞の選考にも関わる中で発した「勝者と敗者の双方、つまりすべての参加者に栄冠が輝くところが素晴らしい」という言葉に、僕は震えた。

歌詞の紹介は割愛するが、勝者や勝利といった言葉は確かに一切出てこない。

高校野球はトーナメントつまり勝ち抜き戦であり、最後に残った勝者が優勝という栄誉を勝ち取るイベントだ。

だが、優勝するのは1校で、残りはすべて敗者となる。

全ての参加校を応援する歌は、勝利者をたたえる歌であってはならないという考え方は、より良い世界を目指す基本精神だ。

ユネスコの定める「無形文化遺産の定義」の中に「価値」という言葉が出てこないことに通じると思う。

さらに言えば、成功と失敗を超えた永続を目指す僕にとって、勝敗を超える理念は心に刺さる。

そして最後に忘れてはならないのは、歌詞とメロディの関係だ。

裕一は曲を書くにあたり、必ず歌詞を深く読み、その背景を理解するために関係者に会い、現場に足を運び、その結果生まれるメロディが彼の作品だ。

のどかな大正から昭和の戦争を経て敗戦、復興、躍進と変化する社会情勢が、色濃く反映される歌詞に対し、その時代を生き抜いた裕一の紡ぐメロディからは、どこか一貫した「裕一節」が感じ取れる。

考えて見れば、「歌詞=言葉」と「メロディ=音楽」は、密接な関係にあるが、全く違う役割を果たしている。

「言葉」は頭で理解し「意味を考えさせる」役割だが、「音楽」は耳や体から頭に届いて「動きの様なものを感じさせる」役割だ(うまく言えただろうか)。

のどかな時代のメロディと、戦時下で戦意高揚に貢献したメロディと、敗戦後の復興や発展に彩りを添えたメロディを明確に区別することは、僕にはできない。

つまり、僕らが生きて、がんばることに、どの時代も違いは無いのかもしれない。

だから僕らは、いつの時代からも学ぶことができるのだろう。

だとすれば、僕らだって、いつの時代にも役立つことを成し遂げることができるかもしれない。