秘密の禁止

秘密とは、誰にも知られたくないこと、誰でも少なからず秘密を持っていると思う。

誰だって、自分の知っていることすべてを他人に知られたいと思うわけではないのだから、それ自体の是非を論じるつもりはないが、知られたくないことを知られた時に様々な問題が起きるのが現実だ。

本当に知られたくないのなら、記録を残さないだけでなく、アリバイや言い訳を用意して、秘密の存在そのものを誰にも気づかれないようにする必要がある。

だが、おいしい料理の調理法や配合など、いくら秘密にしてもその存在までも秘密にすることができない場合もある。

そしてさらに、たとえ秘密がばれてしまっても、周囲がそれを知らないふりをして守ってくれることもある。

そこで、この3つを「本当の秘密」、「社会の秘密」、「公然の秘密」と呼ぶことにしよう。

僕がいきなり「秘密」の話を始めたきっかけは、「桜を見る会」の名簿の件だ。

「桜を見る会」の名簿が捨てられた問題をめぐり、今世論は真っ二つに割れている。

1つは「民主主義にとって大事な話とは思うが、今は山積する現実問題を優先すべき」という意見。

そしてもう一つは「この問題をもみ消そうとする人たちに、そもそもは任せられない」という意見だ。

だが、問題の核心はこの名簿を見せるべき見せたくないという「社会の秘密」になったこと。

では、今年の5月に問題化する以前は「本当の秘密」と「公然の秘密」のどちらだったのだろう。

テレビ報道などを見ていると、「本当の秘密」だったとは到底思えない。

多くの映像や報道記事が残っていることからも、秘密の存在を隠そうとした痕跡は見当たらない。

だとしたら、これは「公然の秘密」だったのだろう。

今更急に批判されても、「だって皆さん、知ってたんじゃないの?」と、言いたそうな顔ばかり。

もちろん追及する側は「公然の秘密」などと認められるわけがない。

だが、喜んで参加していた人たちの中には、「公然の秘密」を疑わない人が大勢いるはずだ。

だから「説明責任」を問うのは、「真実の秘密」としての完璧な説明を求めているように僕には見える。

たとえすべてのプロセスを明らかにしたところで、どこでもやっていそうな癒着やご機嫌取りのてんこ盛りだろう。

そしてそれらを法に照らし、糾弾を続けた結果、何人かの法令違反が訴追され、処分されるのが落ちだろう。

それが「公文書法」だとしても、自分で作った法律を踏みにじる国会など糞食らえだ。

こんな奴らに憲法を論じる資格などないし、まさに時間の無駄と言わざるを得ない。

これまで僕たちは、アメリカの公文書に何度も驚かされてきた。

軍事機密だけでなく、様々な不正や謀略など30年をめどに公開され、歴史の審判を仰いでいる。

秘密とは、その保持者が自分の身を守るためだけに許されるものであり、30年はその時効の意味も持つ。

全ての秘密は、いずれ暴かれなければならないという考え方に、僕は強く賛同する。

それは秘密=真実だから。

真実の是非(善悪)は、時代や地域によって異なるので、安易に問うのは難しい。

だが、真実は全人類の財産であり、進歩や進化はその上に生まれるものだろう。

だから僕は、「秘密の禁止」を主張する。

全ての真実は隠さずに生きていきたい。

そして本当に隠したいことは、自分からも隠して「無きもの」にしたいと思う。