主役の自覚

いよいよ消費税の増税が実施される。

今回の消費増税は、すでに何度も見送られてきただけでなく、軽減税率やポイント還元など、まるでどこかのバーゲンセールのような有様だ。

この増税が、国民の合意のもとに行われているとはとても思えないし、僕自身納得できないから先日「消費税廃止」を主張する令和新撰組に投票までしてしまった。

だが、ここに来て増税に反対する目立った動きは見えてこない。

恐らく消費増税は、着々と実施されるのだろう。

それは結局、大多数の国民が心の中では反対していても、増税を容認しているからだろう。

この国は、コンセンサスを目指すのでなく、大多数の容認の下に運営されている。

僕が再生したい「地主」とは、こうした諦めに立ち向かう人のことだ。

明治維新で廃止されるまで、地主の主な役割は「年貢のとりまとめ」だったそうだ。

当時の国民は「民(たみ)」と呼ばれ、国の支えと位置付けられてはいたが、決して人間ではなく、家来以下の存在だった。

そんな民に与えられた土地所有権は、年貢などの税の割り当てに過ぎなかった。

人々は税を免れるために、土地は小さく、間口は狭く、軒高は低く抑えることに励んだ。

だから、当時の社会の主役は「税を取り立てる領主」であり、領主に使える武士や地主が脇役で、民はその僕(しもべ)だった。

だが、このやり方でも社会が成立したのは鎖国している間のことで、西欧列国が現れるとそうはいかなくなった。

昔の税金にあたる租庸調(そようちょう)とは、食物、労役、織物のこと。

こんな「現物納税」で国が成り立ったのは、所詮、前近代的な自給自足の社会だったからだろう。

そこで、1873年に明治政府は地租改正(ちそかいせい)を行い、年貢を排して地租という税金を土地に課税した。

税金を納めるために、作ったコメを売るだけでなく、他の事業を起こしたり、土地を貸したり売ったりすることで、お金の経済が回り始めた。

その後の日本は猛烈なスピードで近代化を推し進め、1889年には衆議院選挙が行われた。

だが、この時選挙権を与えられたのは、「満25歳以上、直接国税15円以上を納める男子」とされている。

つまり、15円以上の税金を払う男だけが「国民」として認められたとも言える。

もちろんこの時はまだ、日本の主役は「天皇を担いだ明治政府」であり、先進列国の仲間入りをするために民主主義の体裁を整えたに過ぎない。

それにしても、当時の納税者とはどんな人だったのか。

Wikiによれば、日本の税制度の歴史はこんな感じ。

1873年:地租(国税、地租改正、地券表示の土地価格3%、現金納付)、地租付加税(地方税)、印紙税、駕篭(かご)税(1年間で廃止)

その後、1875年:煙草税導入、1878年:船舶付加税、1882年:家屋税、1885年:醤油税(1926年廃止)、1887年:所得税、1888年:家屋税付加税。

つまり、選挙が始まった1989年当時の納税者とは、ほとんどが「土地所有者」だったと思われる。

ちなみに、地租(現在の固定資産税)とは、国や地方自治体が所有する官有地を除く「民有地」だけに課される税金だ。

だから、土地の登記も民有地しか行われずに、官有地はそれぞれの官庁が行っている。

余談だが、尖閣諸島は民有地だったので中国に対抗して国有化を行ったが、竹島には登記簿謄本は存在せずもはやなす術はないという。

いずれにせよ、明治政府は土地所有者から地主の役割を自治体に移すことで、「官と民」を分離して、土地所有者を国民とみなす民主国家を作り上げた。

その後、資産を持たない貧しい人々を戦争に駆り立てて、日本は国の名のもとに多くの人々を殺してきた。

そしてついに、1945年の敗戦によって、世界最先端の「戦争しない民主国家」がスタートした。

日本の主役は天皇を担いだ政府から、納税や性別など何にも限定されないすべての国民に移ったはずだ。

だから、政府も国会もすべての「官」は、「民」のサポート役のはず。

国民自らが税金を集め、それを財源にして「官」に仕事をさせる社会になったはず。

でも、敗戦当時、日本の政府や議会は解体されることなく、戦前の仕組みがほぼそのまま復興を担うことになった。

そして今も、戦前の政治家や官僚の子孫たちが、この国の政治や行政を担っている。

もちろん彼らもみな国民なので、それを阻む理由はない。

だが、僕ら国民に「主役の自覚」はあるのだろうか。

そこで僕は、地主の再生を提案する。

形だけの民主主義を担うため、土地所有者という納税者にされ、かつての地主は滅びていった。

だから今度は、誰もが参加出来る法人組織が土地を所有することで、国民自身が国土を所有し担う社会を目指したい。

でもそのためには、国や社会を自ら担う「主役の自覚」が欠かせない。

もちろん誰もが主役になれるわけではないし、むしろ僕たちは、訪問者や脇役として多様な世界を楽しみたい。

だが、たとえ小さくても、辺鄙なところでも、世界に一か所くらいは「自分が主役になる地域」を持っても良いと思う。

そんな場所を故郷と呼んで、誰もが故郷作りに挑んだらいいと思う。