血縁家族の終わり

ついに天皇の退位が実現し、令和の時代が始まった。

戦後生まれの天皇に、元外交官の皇后と、素晴らしいカップルの即位に僕でさえちょっとだけ胸が躍る。

だがすでに、今度の天皇は歴代2位の高齢即位であり、3位だった上皇天皇を抜くという。

その上皇位継承者が3人しかおらず、次世代継承者に至っては一人しかいないのが現状だ。

確かに女系皇室の問題が浮上してから久しいが、この男女差別を含むのが日本の家族のお手本だ。

だとすれば、いよいよ日本の家族制度は終わりを迎えつつある。

これほど裕福で手厚い保護を受けている天皇家の存続ですら危ぶまれるということが、皮肉にもそれを示している。

天皇の継承者が不足する理由は、一夫一婦制のせいだと言う。

125代におよぶ天皇のうち約半分が側室の子で、過去400年間では側室の子どもではない天皇は109代の明正天皇、124代の昭和天皇と125代の前天皇の3人のみだそうだ。

この話を聞いて、僕は以前イスラム教徒の友人とした話を思い出す。

イスラム教徒の一夫多妻制を多様性として受け入れた僕に対し、友人が一夫一婦制を否定してきたので「なんで一夫一婦制がいけないんだ」と問いただしたところ、「平気で浮気してる、神様を騙している」と叱られた。

当時は、宗教観の違いだと納得していたたが、今回天皇家を見ていて考えが変化した。

やはり、家族制度を維持するためには、一夫多妻制は必要なのかもしれない。

だからと言って、僕は一夫多妻制を推奨する気はない。

むしろ、「常にひとりを愛した」というマリリンモンローに賛同し、一夫一婦制を支持したい。

だがそうすると、男系男子による家族の継承は途絶えてしまうだろう。

でもそれでいいと、僕は思う。

むしろ、「家族」という血縁の縛りから解放されることこそが、個人主義であり、民主主義の基本だと思う。

そもそも血縁家族とは、継承の争いを回避するための知恵だったのではないだろうか。

原始時代、財産といえば縄張りや家来しか無かったころ、血縁者を後継者に選ぶのは判りやすかったと思う。

また、天皇家は昔から皇室以外からたくさんの妻を迎えていた。

世界の王たちが好んで外国人の妻をめとったのも、優秀な後継者を生むための手段だった。

天皇家の男系男子というやり方も、決して女性蔑視ではなく、むしろ婿として入ってくる男子の排除に他ならない。

愛子様の継承を望む人たちは、果たして愛子様が中国人と結婚しても許せるだろうか。

アメリカ人、アフリカ人ならどうだろう。

結局天皇家が「男系男子」というルールを変えられないのは、それが天皇家の定義だからだ。

定義に理由など必要ない。

だが、天皇家が断絶しないよう、この定義または一夫一婦は変更せざるを得なくなる。

これももはや、理由などどうでもいい。

だがこれを、僕たち国民が見習う必要などあるはずもない。

むしろ僕たちは、生き残りのために家族という仕組みを作り直すべきだ。

生き残りとは継続すること。

そのために生まれた仕組みが「社団法人」だ。

「遠くの家族より近くの他人」という言葉を「遠くの親族より近くの他人」と言い換えればわかりやすい。

つまり、血縁のつながりでなく、実際の暮らしや仕事でつながる人たちを「社団」と思えばいい。

家族だとメンバーが死ぬたびに相続が発生し、家族とともに財産も分解されてしまうが、社団法人ならすべての財産をメンバーが総有しているので、誰が死んでもみんなで継承すればいい。

こうした「みんなが持ち主になる社会」を、「民主社会」というのだと僕は思う。

これまでかたくなに守ってきた男系男子天皇制の危機は、はからずも日本人の家族制度の終焉を示唆してくれた。

この原則を変えることは、確かに天皇制の一部が欠落することを意味するだろう。

だが、同時に血縁に基づいた家族制度を日本国民が捨てるなら、天皇制度を一部変更しても良いと思う。

それはまさに、日本国民の象徴ならではの運命ではないだろうか。