僕が7年前から取り組んでいる笑恵館は、会員制の「みんなの家」。
今度僕が事務局長を引き受けた「みんなの家」はHOME-FOR-ALLという団体だ。
いずれも「みんなの家」であることに、僕が強い縁を感じたのは言うまでもない。
その上僕は、父の建設会社に行きたくないという不純な動機とはいえ、当初は建築家を目指したので、この団体を主宰する伊東豊雄さんはもちろんのこと、友人でもある妹島和世さんやクライン・ダイサムさんと協働できることは、とても光栄であり嬉しいことだった。
そこでまず、東北や熊本の被災地に建てられた「みんなの家」を訪れて、関係者の皆さんにお目にかかることにした。
だが、そこで待ち受けていたのは、「僕の大きな勘違い」という気付きだった。
それは「みんな」という言葉が人々をまとめるだけでなく、分断や消滅をもたらしているという現実だ。
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そもそも「みんなの家」が生まれたきっかけは2011年3月11日の東日本大震災だ。
前代未聞の巨大地震に加えて、巨大津波と原発事故が重なるこの災害は、日本の崩壊すら想起させるものだった。
建築家の伊東豊雄さんは、最初は自身の代表作である「せんだいメディアテーク」の被災状況を確かめたくて被災地に赴いたが、やがて他の建築家と同様に被災者が身を寄せる避難所を訪れたそうだ。
だがそこで、プライバシーや静寂を求めるための仕切りを見て、妹島和世さんの「ここにテーブルを置いて花でも飾った方がいいのでは」という言葉を思い出したという。
やがて仮設住宅が建設され、人々は癒しもゆとりもない暮らしを強いられる。
せめてテーブルをみんなで囲むことができるささやかな家を、自治体の力を借りずに自分たちで建てられないか・・・これが「みんなの家」の始まりだ。
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建築家たちは仮設住宅に暮らす人たちと話し合い、スポンサーを募りながら東北の各地に「みんなの家」を建てていった。
だが、その第1号に手を差し伸べてくれたのが、アートポリスという取り組みで建築家たちと連携していた熊本県だった。
熊本県は地元の自治体としてではなく、被災地を思う県民たちを代表して建築家たちの1スポンサーとして人や物を提供してくれた。
ところがその翌年、今度は熊本の阿蘇地域で大規模な土砂災害が発生する。
東北の被災地で、「みんなの家作り」に関わっていた熊本県の職員たちは、前例が無いという困難を乗り越えて、2棟のみんなの家を建てるだけにとどまらず、48戸の木造仮設住宅まで実現した。
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避難所を仕切るばかりでなく、テーブルに花を置いて心を通わせる「みんな」からスタートした「みんなの家」は、支援する側とされる側双方の「みんな」、支援したいと願う市民とそれに取り組む行政の「みんな」へと広がってきた。
4/3~4/5にかけて、熊本県庁や各地の仮設住宅、そして被災者の自立を助ける被災者公営住宅などを見るうちに、「みんなの家」が単なる交流施設ではなく、復興というまちづくりの手法になりつつあることを実感した。
だがその一方で、災害復興には終わりがある。
「みんなの家」を活用して育まれたコミュニティは、消滅という終わりを目指している。
建築家と被災者たちが一緒に作った地域のシンボルも、その役割を終えると消えて行く。
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個人や企業が生活や事業のために作った施設なら、永続せずに移転や消滅していくのは当然のことと思う。
だが、本当の地域復興とは、地域が永続的な魅力や拠り所を持つことではないだろうか。
確かに「様々なみんな」を巻き込みながら事業や施設を作ることで、仮設住宅を単なる施設でなく「まち」にすることができた。
様々な人が「みんな」となって関わり合うことこそが、地域社会そのものだからだと思う。
だが、その「みんな」が、やがて役目を終えたり、転居先を見つけて去っていくのは、そこが「仮のまち」の証拠だ。
せっかくの「みんなの家」が壊されないようにするには、仮設住宅が無くなった後も必要とされる家でなければならない。
つまり、仮設住宅以外の周辺住民や、転居後の住人も含む「永続的なみんな」の家ということだ。
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こうして考えてみると、笑恵館は初めから「永続するみんなの家」を目指してきた。
そのためには、永続的な「みんなの家」に賛同し協力する「みんな」が欠かせないし、その「みんな」こそが永続する地域社会の担い手だ。
笑恵館の永続的な運営を願う賛同者(会員)が、すでに600人に届こうとしているが、これは笑恵館の有る世田谷区砧町の住人26,000人に比べれば、決して多くない。
でも、そんな人数は関係ない。
たとえ10人でも、永続を願うみんなが担うなら、その地域は永続する社会となるかも知れない。
次の東北地方の視察では、復興のその先の、永続社会を目指すみんなと出会いたい。