江東区×大田区の国づくり

10月16日、中央防波堤埋立地の帰属をめぐり、40年にわたって対立してきた江東区と大田区に対し、東京都が「およそ503ヘクタールのうち、江東区におよそ86%、大田区におよそ14%帰属する」という調停原案を示したが、これに対し大田区が強く反発している。

この埋立地には、オリンピックの競技施設建設が進んでおり、早期の解決が望まれているが、双方の区議会がこれを受入れなければ、訴訟に発展する可能性もあるという。

この報道に対し、SNS上でも様々な意見が飛び交っている中で「調停に従わないのなら、なぜ調停申請したんだ!」という意見に僕は反応した。

「たとえ自分に不利な結果でも、それに従う」という前提が無ければ調停など意味がないからだ。

だが、このところこんな話ばかり聞かされているような気がしてならない。

例えば、「もりかけ問題」に関して「首相には説明責任がある」と詰め寄っているのに、安倍首相がいくら丁寧に説明しても「それでは納得できない」の一点張りでは話が進むはずがない。

誤解しないでいただきたいが、僕だって安倍総理の説明ではまるで納得できない。

だが、それならいつまでも「説明責任」などを求めずに、こちらの疑問を明確にし、それに対する答えを求めるべきではないだろうか。

こちらが求めることが相手にとって不利ならば、そんな求めに応じる人がいるわけない。

だが、安倍首相の丁寧な説明の繰り返しを国民は何度聞かされたことだろう。

もういい加減にしろと言いたいのは、安倍首相を問いただす側に対してだ。

返り討ちに会うのを恐れ、遠巻きにそしるのでなく、返り血を浴びるくらい間合いを詰めて、きちんと切りかかれと僕は言いたい。

こんなことで、この国は世界に伍して生きていけるのだろうか。

僕は民主主義のことを、「戦わない主義」とは思わない。

多数決も選挙も戦いだし、仕掛ける方は、誰も負けや損を望んでない。

改選前より与党の議席が増えるという人は一人もいないのに選挙をするのは、安倍首相にしてみれば、たとえ議席が減っても得なのだろうと僕は思う。

調停とは、たとえ負けても責任を問われないための手続きだ。

不利な調停案に不満を述べるのはかまわないが、それを蹴って裁判をするのは時間の無駄だ。

これまでの40年だって、決して戦い続けた時間ではなく、単に決めない先送りを代々の区長が引き継いで来ただけだ。

40年の人生を棒に振って冤罪を晴らすのとは訳が違う。

もっと答えを出す努力をすべきだ。それをあえて「戦い」と今日は言う。

僕の提案は、今回の帰属問題を「江東区×大田区」が、国の中の自治体同士の内輪もめでなく、世界の中の国同士の戦うこと。

双方の言い分が「100%じぶんのもの」というなら、それを賭けて戦うべきだと僕は思う。

大田区長が「区民を代表するものとして承服できない」というのなら、区民を代表して江東区長に決闘を申し入れるべきだ。

本当に区民がそう願っているのなら、区民同士で戦うべきだ。

問題はその方法を真剣に考えること。

「民主的」とはどういうことかがここで試されるだろう。

例えば、剣や銃で殺し合うなどあり得ないし、軍備や核で脅し合うのもふさわしくないだろう。

それでは住民投票の支持率を比べるのか、公開討論の後みんなの多数決で決めるのか。

なんなら、みんなの綱引きで決めるのか、代表選手がリレーで決めてもいい。

こんな大事なことを綱引きで決めるなんてふざけるなと、お叱りを受けるかもしれないが、僕はまじめだ。

僕が言いたいのは、もっと真剣になって「物事を決めるべき」ということだ。

オリンピックという民間主催の単なるスポーツイベントに、数兆円というお金をかけても許されるのは、それが真剣勝負だからとしか僕には考えられない。

真剣に考えた結果の調停なら、それに従うことができるはず。

40年も決めずにいることを、すべての関係者の怠慢としてもっと恥ずべきではないか。

そして決められないことを放置せず、すべての人に真摯に問いかけることが「民主主義による」ではないかと僕は思う。