赤字国債で足を食う僕たち

以前僕は、会社は「最大幸福の実現を追求する仕組み」で、社会は「最小幸福の実現を確保する仕組み」だと話したことがあるが、これを、「会社=私的な仕組み」と「社会=公的な仕組み」と言い換えることもできるだろう。

現代において、世界には「世界はこの二つの仕組みが相互に補完し合うことで、自ずと進化していく」という漠然としたコンセンサス(合意)がある。

今日の僕は、これに異議を唱える気はない。公的な国々によって構成される世界を、私企業たちが自由に行き交う様子は、素晴らしいとさえ思う。

だがそれは、あくまで自立した多様な「公と私」によって構成されていることが前提だということも忘れてはならない。

グーグルやアマゾンなどの巨大な私企業が、着々と規格化・標準化を推し進めるこの世界は、アメリカから北朝鮮に至るまで、まるで異なる正義を持つ公的な国家群の生態系だ。

これらが全体として進化していくことは僕にも想像できる。

だが、各国内の状況は別問題だ。

人類全体の進化はすべての国の進化を意味するわけではない。

むしろ進化に適応できない部分は淘汰され、世界の誰かに取って代わられるのだろう。

だから、自分の生き残りは自分自身で勝ち取るより他に無い。

そのためには、世界で起きている変化の中で、進化と退化の違いを見分け、進化の一翼を担うことだと僕は思う。

そのためにはどうすればいいのか。

それは、日本国内を、自分の身の回りを、世界のルールで考えることではないかと僕は思う。

世界の中で自分がどういう存在なのか、世界の中で日本がどういう場所なのかを考える必要があると思う。

それともう一つ、自分の国はどこなのか、日本という国に漠然と所属していれば自分たちは生き残れるのかが問題だ。

身の回りの小さな世界を自分の国と考えて、たとえ日本が衰退しても、自分の国が日本を代表し、世界のなかで生き残る必要があると思う。

さて、会社と社会を「報酬を得る仕組み」として考えると、会社は「サービスを提供した相手から報酬を得る仕組み」で、社会は「必要なサービスを行うために払える人から報酬を得る仕組み」ではないだろうか。

乱暴に言えば、人類の進化は一部の人たちが成功し富を得て豊かになり、周囲から妬まれ襲われるリスクを回避するために富を再配分してきた繰り返しだ。

だとすれば、「会社と社会」を「私と公」で割り切るのは難しい。

例えば、グーグルの検索機能は一切の対価を求めず別事業の収入で賄われており、これを私的なビジネスとは言いきれないし、行政が行う子育てや介護支援は必要としている全員に行き届かず、税金の使途としては問題だ。

このように、民間私企業がすべての人に無償でサービスを提供しているのに、公的な行政が結果として一部の人の便宜を図っている現状に誰もが慣らされ、放置している。

世界の生態系を生き抜くのに、こんな鈍感で大丈夫だろうか。

世界はすでに、国を「公」とは考えていない。

国は国益にこだわる共同体であって、本来の公は世界全体だ。

だから「公」を語るときは、世界を相手に語るべきだと僕は思う。

アメリカファースト、都民ファーストとは、こうした流れが顕在化したに過ぎない。

昨日テレビで「シンゴジラ」を見ていたら、万策尽きた日本政府が、多国籍軍による東京の核攻撃を認める国連決議案に賛同するシーンがあった。

「なぜ日本だけが3度も核攻撃を受けなければならないのか」という反論も、「たとえこれがニューヨークでも、国連は同じ判断をする」と言われなすすべがない。

最終的には、世界が知恵を出し合ってゴジラを凍結してしまうのだが、そんな方法で北朝鮮をおとなしくできたらどんなにいいだろうと僕は思った。

また、世界はすでに企業を「私」とは考えていない。

国家の体制を揺るがすものは、政治や行政でなく、SNSや流通サービスだ。

昨年末に上海を訪れて一番驚いたのは、フェイスブックとグーグルが使えないことに困惑する自分自身だった。

中国では、公的には英語はほとんど使われず、webも書籍も完全に中国語化されている。

もしも日本で全てが日本語化され、英語が使えないとしたら、世界から孤立してどんなに困るだろうと考えてしまうが、中国ではむしろ中国語に特化することで、14億人の巨大マーケットが実現する。

現に若者の多くは英語が堪能でフェイスブックもグーグルも大好きだが、それは外国で使うもので、国内は中国語と口を揃える。

これがまさに「地域性」だと僕は思う。

地域のマーケットに最適化することがビジネスにとって重要であり、隣の町の真似をしたり、中央政府のお達しに従う地方自治では、生き残りはおぼつかないだろう。

このように、公と私の担い手が曖昧なのに、行政が企業から一方的に徴税するのはおかしいと僕は思う。

そして、すべての国民と企業は、この不満を政府にぶつけるべきだと思う。

ところがそうならないのは、赤字国債のせいだ。

政府は100兆の予算の半分の50兆を借金で賄っているが、これは本来国民に課税しなければならないお金だ。

震災の復興とか、特殊な公共工事のためならまだしも、福祉や医療の財源は一時的な支出ではない。

結局国民から取れそうにないので赤字国債でごまかしているに過ぎない。

この借金で平気な顔をしている国民の責任はさらに重い。

もしも50兆税金が増えると、一人当たり40万円以上の税金になる。

これを自分で払わずに借金扱いにして、使う方は惜しげもなく使っているのが僕たちの姿だ。

そんな僕たちを、世界の人たちはどう見ているのだろう。

自分の足を食う愚かなタコにしか見えないのではないだろうか。