映画「帰ってきたヒトラー」が、あまりにも面白くて、書かずにはいられない。
まず、昔の人が突然現代に現れるなど荒唐無稽であり得ないけど、どんどん引き込まれて夢中に見入っている自分自身がとても興味深い。
次に、まだ記憶に新しいあの忌まわしい男が実際に現れたとしたら、ドイツの人たちがどんな反応を示すのかがとても面白い。
そしてもう一つ、もしもヒトラーが現代に現れたら何を感じ、何をして、そして当時を振り返りなんと説明するのか。
ヒトラーという人物に関する興味や好奇心、そしてもしも自分がヒトラーだったとしたら・・・というところまで思いを馳せてしまう自分に気付いたからだ。
ということで、少々ネタバレになるけど、どうかお許しを。
嫌な人は、読むのをやめて、自分で映画館に行ってください。
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『帰ってきたヒトラー』(原題:Er ist wieder da 「彼が帰ってきた」)は、ティムール・ヴェルメシュが2012年に発表した風刺小説で、ドイツでベストセラーになり、今回映画化されたという。
「彼が帰ってきた」で通じるところがそもそもすごい。
原作ではヒトラー自身が現代社会で再起を図ることを目論むところまで描いているようだが、映画はそこまで描いていない。
だが一方で、通りすがりの人々の顔を目隠し処理したり、架空のはずが妙に現実的に描写され、次第にドキュメントを見ているような錯覚に陥っていく。
しかし、「この映画は現実だと思って観たほうが面白い」と心の中からそそのかす言葉が聞こえてきて、次第に僕自身がヒトラーの身になり、ヒトラーの共犯者になりつつあるのを自覚しながら、さらにのめりこんでいく。
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映画の中でヒトラーと対面する多くの人が「彼を知っている」ことも面白い。
そして誰もが、まさか本物のはずがないという安心感の下、あからさまに嫌悪感を示す人と、好奇心から近づいてくる人にはっきり分けて描かれている。
そして、どちらでもない人たちが「ヒトラーを知らない人」となり、その危うさも伝わってくる。
その時僕は、ふと日本の状況を考える。
もしも今、歴史上の人物が突然現れて街を歩いていたら、人々はどのように反応するのか。
もちろんヒトラーに相当するような人物が、すぐには思い浮かばない。
例えば西郷隆盛では少し古すぎるし、吉田茂では興味が沸かない。
だが、ドイツだって、ヒトラー以外にそんな人は見当たらない。
ゲッペルスが歩いていても、きっと何も起こらないだろう。
次第に浮かんでくるのは、フセイン大統領、カダフィ大佐、ガンジー、アインシュタインなど、たった一人で世界を動かした人、少なくともそういうイメージが自分自身と歴史上の人物をつないでいるように思う。
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「フィクションの方が真実よりも現実的」とはまさにその通り。
この映画を見る誰もが、ヒトラーに自分自身を当てはめて、次第にヒトラーの歴史責任を自問自答し始める。
ヒトラーの身になって極右政党のふがいなさを嘆き、ヒトラーの見地から緑の党の愛国心を評価する。
妥協せず社会悪に立ち向かうヒトラーの姿勢に共感し、次第に支持さえしてしまうし、つい絡みつく犬を撃ち殺いてしまったことでさえ、次第に許してもいいと思えてくる。
「なぜあなたは、ドイツをあんなひどい戦争に向かわせたのか」との問いに、「求めに応じて計画を立て、信任に答えて実行した」と答えるのを聞きながら、英国の国民投票を思い出す。
EU離脱を決めたキャメロンが優秀かどうかはわからないが、ドイツ国民は優秀な指導者を求めただけのことだった。
その選択は間違いだったことを「今は」誰もが知っているが、あの時、どれだけの人がそれを知っていたというのだろう。
現に今、街にヒトラーが現れたら、多くの人がその明晰さに惹かれ、その断固たる態度に追従してしまうだろう。
「優秀な人は正しい」、「立派な人は正しい」という根拠のない判断が、ナチスドイツを生んだ当時に、僕たちを連れて行ってくれる…この映画はそんな映画だ。
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僕は今の安倍政権を見ていて、ナチスによく似た光景を垣間見る。
それは、安倍総理がヒトラーに似ているという意味ではなく、「人々が優秀なリーダーを求めている」という状況で、歴史を参照する限り、これは危険な兆候だ。
一人が世界を動かしていくのは、そんな状況の時に起こりうる。
そのリーダーが、「良い人かどうか」など誰にもわかるはずがないし、織田信長がいい人だったか、ナポレオンがいい人だったか、そんな議論に意味はない。
もしも良いリーダーに恵まれても、その後継ぎがどんな奴だかわからない。
そもそもその良し悪しなど、後で振り返って決めること、僕は「人任せの社会」には、居たくないと心底思う。
そしてこの映画を見た多くの人は思うだろう。
「自分だったら、どうすればもっと良いヒトラーになれるのか?」それはとてもいい問いかけだと、僕は思う。