最大とすべての差

「最大多数の最大幸福」という言葉は、200年ほど前にイギリスの哲学者・法学者のジェレミ・ベンサムによって唱えられた説のこと。

これを民主党政権時代に菅直人首相が「最小不幸」と言い換えたのは記憶に新しい。

管総理は最大幸福の実現のために行われる「福祉」のことを、こう述べたのかも知れないが、僕はこれに強烈な違和感を覚える。

それは、福祉とは、こんな曖昧な願望ではなく、憲法に定めた「基本的人権」を実現させるための施策のはず。

だとすれば、「最大」ではなく「すべて」の国民を対象とすべきではないだろうか。

例えば介護施設や保育園に入れずに困っている人がいるとはどういうことか。

税金を使ってやる以上、全員が享受できない福祉など、憲法違反のはずだというのが僕の意見だ。

特別養護老人ホームという究極の介護施設が、補助金を使って全国各地に建設された。

なのに、多くの入所希望者が待機しているのはどういうことだ。

「待機者のうち本当に入居が必要なのはその1割」とか、「今は入居の必要はないが、将来に備えて申し込んでいる」など、施設側も待機者側もある程度現状を容認しているようだが、この議論はそもそもおかしい。

つまり、これでは単なるサービスであって「福祉」とは程遠い。

福祉とは、すべての人が享受できる権利のことのはず。

現状は「介護施設や保育園に申し込むことのできる権利」と言い換えた方が正しい。

以前新聞で「スウェーデン方式の崩壊」と題する記事を読んだことがある。

小学校が財源不足のため、教科書を支給できず上級生のお古を使うことになったり、バス代が払えず遠足が徒歩になったりしたことを評して、「手厚い福祉が崩壊し始めた」というのだ。

僕はこんな記事を書くマスコミに心底失望した。

なぜならこれは、崩壊どころか福祉を死守するスウェーデン社会の戦いだ。

きっとこれが日本なら、教科書を有償にするとか減らすとか、そろばん勘定が先行するに違いない。

しかし、すべての国民に対する無償のサービスとは、こういうことだ。

先進国には、医療費が無償の国がいくつもあるのに、日本の医療は当初1割負担で始まった。

たったの1割負担だから福祉と大手を振っていた。

なのに今では3割負担となり、気がつけばなんと3倍の値上がりだ。

国づくりにおける「最大とすべての違い」がいかに大きいかを、今思い知るべきではないだろうか。