原発による発電コストが、他の自然エネルギーによる発電コストより安価なことが、原発依存派の論拠となっていることは、あなたもご存知と思う。
そして同時に、この議論は原発の廃炉コストという見積不可能なコストを除外することで成り立つ虚構であることも。
さて、僕はなぜこの話をしているかというと、ふと不思議に思ったからだ。
それは「なぜこんなお粗末な話が、世の中まかり通るのか?」という疑問だ。
本当は複雑で難解な問題なのに、真実や実態は報道されていないのか、それとも本当にお粗末な話なのか。
こんなお粗末だから、政治は見捨てられているのではないか?
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僕は3年ほど前、無職フェスの岩井君が企画したバスツアーで静岡の浜岡原発を見学した。
ここではすでに1号炉が廃炉に着手していて、取り出した使用済み燃料棒だけでなく操業開始以来使用したすべての燃料棒が構内の燃料プールに格納されていることを知り、愕然としたのを忘れない。
なのに東京電力は、臆面もなくそれを平然と説明している。
かわいいガイドのお姉さんがにっこり笑って「廃炉工程の完了予定はまだ不明です」と説明する。
先ほどの話に戻れば、明らかにお粗末な議論だが、こうして堂々と説明されると「なるほど」となんだか納得してしまう。
帰りの車中で「おのお姉さん怖かったですね」といわい君と顔を見合わせた。
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どうやら社会では「あまりにもお粗末な議論」が堂々と行われている。
それも新聞・テレビといった公共のメディアで「誰それの正式見解」としてだ。
しかしまてよ、それは誰の意見なんだろう。
例えば、先日来の「安保法制に違憲性」について、憲法学者と自民党は一体どちらが正しいのか。
僕には、憲法学者は自分の意見を言い、政治家は立場の意見を言っているように思える。
多くの学者は違憲と言っているようだが、中には合憲という学者がいてもいいと思う。
でも、自民党や政権スタッフが「確かに違憲かもしれません」などと言うだろうか。
菅官房長官は開き直って「違憲判断をするのは学者じゃなくて最高裁だ」と言いだすし、「あんたは最高裁から合憲と言ってもらえる自信はあるか?」と聞かれた内閣法制局長は「もっともです!」と答えていた。
このやり取りに至っては、小学生も笑っちゃうだろう。
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結局、議論などできていないし、質疑応答形式で言いたいことを言い合うだけ。
今の国会で「議論を尽くす」とは、「互いに言いたいことを言い尽くすこと」にすぎない。
国会以前に行われる自民党と公明党の与党協議でさえ、自分たちの言い分をどこまで盛り込ませるかの駆け引きに明け暮れ、全体の是非や評価など二の次だ。
ううん、つまり[自分たちの意見]が曲者だ。
そもそも「自民党の意見」や「公明党の意見」はどうやってできるのか。
自民党の意見に対する党内の賛否はどうなのか。
自民党の意見は、本当に自民党の総意なのか。
いや、そんなはずはない。
みんなが同じことを考える政党なんてあるはずない。
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だとしたら、国会をまともな議論の場にする名案がある。
それは、議論と議決を分離すること。
安倍内閣の提出する法案に対しどんなあほな議論をしても構わないから、その採決を党が拘束せず自由に行わせ、各議員の行動は選挙区の国民がしっかり評価すればいい。
自民党の法律だからといって自民党議員は賛成しなくてもいいし、野党の議員だっていいと思えば賛成すればいい。
国会の議論はチームプレイかもしれないが、議会の投票行為は、選挙区を代表してもらわないと話が違う。
なのに、議員が「賛成できないけど党の方針だから」などと言うからおかしくなる。
これこそが政治がつまらない原因であり、選挙が無意味になる原因ではないか。
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[自分の意見]と[自分たちの意見]は、これほど違うものなんだ。「自分たち」には、一見[大勢いが賛同する正しさ]を感じてしまうが、「自分たち」などという合計も、平均も存在しない。
すべてはバラバラの[自分]の集合体にすぎない。
1億人が選んだ500人の代表は、せめて500の意見を言うためにいるはずだ。
これを政党の数にするならば、いや、2人の与党と1人の野党にするならば、どう考えても500人は無駄でしかない。
せめて500人に民意を託すなら、投票だけでも政党でなく選挙区を代表すべきだと僕は思う。
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この改革に対し、異議があれば聞いてみたい。
僕はいい改革だと確信する。
ただみんながその気になればできること。
すぐに発信開始しちゃいますよ。