学校という起業

起業に取り組む僕にとって、学校という事業が起業なのか、はじめはピンと来なかった。

そこでまず、これまで多数の学校を立ち上げてきた知り合いに、この学校を診断してもらうことで、僕自身も学校について学ぼうと考えた。

学校コンサルというビジネスは、決して表には出てこない。

それは、彼らが学校のスタッフとして入り込み、学校の一員として活動するからだ。

特段の資格もなく、ケースに応じて必要な役割を応分の報酬で担うので、まずは学校を診断しなければ業務範囲どころか目的すら定まらない。

ところが、僕がサポートするNさんと、コンサルのTさんは、初めから対立した。

それは、学校を目指すのか、目指さないのかという根本的な方向性の違いだった。

Nさんの経営する学校は、いわゆるインターナショナルスクールで、日本の法律では学校に該当しない。

日本の学校には、学校教育法の第1条に定められている一条校と、第134条(旧第83条)に定められる各種学校があり、インターナショナルスクールは各種学校に該当する。

だが、都道府県知事から各種学校の認可を受けた学校は125校に過ぎず、Nさんの学校はもちろん認可を受けていない。

なので、せめて各種学校として認可を取らなければ、「学校」と呼ぶことすら許されず、学園や学院にしなければならない。

「どこかの国をバックに付けて、各種学校を目指すべき」というTさんに対し、「どこかの国に属したら、それはインターナショナルスクールとは言えない。」と、Nさんは一歩も譲らない。

僕はこのやり取りを聞きながら、問題の核心は「学校という言葉の狭義と広義の違い」だと気が付いた。

狭義の学校とは、法律が定める学校のこと。

日本国憲法はすべての国民に教育を受ける権利と与える義務を定めている。

この憲法のもとに教育基本法が定められ、そのもとで教育機関の在り方を定めるのが学校教育法だ。

そこには、「良き日本国民」を育てるための指針と仕組みが定められ、すべての国民に初等・中等・高等教育の機会が与えられている。

したがって、すべての公立学校はこの法律の下に設置され、ほとんどの私立学校もこの仕組みの中にある。

だからこそ、どこの学校を卒業しても、その上の過程に進学できるし、私立学校への助成も充実している。

だが、これらの学校で義務教育を受けていない子どもが14万人いると言う。

彼らが行く「その他の他の教育機関」も、そこに行かせる親たちも、すべてが狭義の教育を逸脱し、法を犯している。

さらに僕は、もう一つの狭義に気が付いた、それは「日本」という島国だ。

インターナショナルという言葉から僕たちは、外国人や英語教育、そしてミッション系スクールなどをイメージする。

だが、これらは全て日本独特の思い込みで、決して世界の常識ではない。

まず「インターナショナル」という言葉を調べると、「①社会主義運動の国際的組織の通称」とか、「②19世紀のフランスで作られた有名な革命歌で、万国の労働歌・ソ連の旧国歌となった。」などが出てくるばかりだし、「インターナショナルスクール」という言葉自体、諸外国では「多国籍・多民族」の教育機関を意味している。

したがって、英語を使うのはあくまで共通語としてであり、英語教育が目的では無い。

数年前まで世田谷にあった留学生会館に暮らす留学生たちは、60か国を越える国々から来ていたので、そこでの共通語は明らかに日本語だった。

さらに言えば、ミッション系スクールとは、完全に日本独自のスタイルで、外国人はたとえクリスチャンでも入学したがらないという。

結局「外国風学校」というのが、狭義のインターナショナルスクールに思える。

Nさんが目指しているインターナショナルスクールとは、「誰もが訪れることができるまちに開かれた学校」だ。

結局僕は、これまで自分がイメージしていた「学校」、「世界」、「交流」といった概念がことごとく狭義のイメージだったことを知ることで、その意味を理解できるようになってきた。

今社会では、「国の際(きわ)の争いを和らげる」ための「国際交流」という言葉を「多文化共生」に切り替えているという。

さらに言えば、「世界」という言葉だって「世の中の境い目」と解釈できる。

考えてみれば、「新しいものを生むこと」は「違いを生み出すこと」。

だからこそ、僕たちは違いを受け入れ、楽しめるようにならなければ、新しいものなど生み出せるはずがない。