立体的な世界

昨日、期日前投票に行ってきた。選挙はいつもそうだが、混とんとした選択肢の中から一つを選んで一票を投じるというやり方にはどうにも納得がいかない。恐らく、最も信頼できる人、最も自分と近い人など、人を選ぶのが正しいのだろうけど、親しい仲間の中からクラス委員を選ぶのと違い、知らない人を比較するためには、どうしても「保守と革新」とか「右派と左派」などの分類に頼ることになる。ところがこの分類は、単純な2択ではなく、「原発の賛否」「安保・憲法の賛否」「消費税の賛否」など幾重にも重なって、立体的になっている。今日は、そんな「立体的な世界」について話したくなった。

 

3次元空間には、直行する3つの軸があり、数学ではこれをx,y,zなどと呼んでいるが、僕らは日常生活の中でこれを「上下・左右・前後」の3つの方向として認識している。本来この3つの軸は完全に対等で、それぞれに特別な意味や性格はない。だから数学では、これらを「xyz」とも「abc」とも、何とでも呼称するし、それらが「上下・左右・前後」と対応することも無い。だが、ひとたびそこに自分自身を置くと、そこには必ず「上下・左右・前後」が生じる。それはなぜかと言えば、僕ら人間自身に「上下・左右・前後」があるからだ。自分から見た前後、左右、上下が本来無意味なx、y、zに対応する。考えてみれば、社会自体に課題があるのでなく、そこに居る僕たちそれぞれが社会に課題を感じている。社会課題とは、その現象をよく見ることも必要だが、それに対し自分がどう思っているのかを知ることも大切だ。

 

人間自身に「上下・左右・前後」があるとは、それらに対し非対称だということだ。もしも人間がボールのような球体なら、上下や前後など存在しない。人間は3次元の中でも特に上下が非対称で、必ず頭が上で足が下にある。次に非対称なのは前後関係で、顔・胸・腹が前なのに対し、背、尻などが後ろになる。だが、最後の左右はかなり判りづらい。心臓がどちらにあるか、利き腕はどちらかなど外見からは判断できないので、説明も難しい。社会課題の中にも、戦争の様にその是非がはっきりしていて賛否もわかりやすいものと、消費税の様に是非の判定がつかず賛否が分かれるものが混在している。だが、判りやすいことは間違えず、判り難いことは間違えやすいとは言い切れない。鏡に映った自分の姿を見て、多くの人が「左右が逆」というが、鏡の中に向かい合って立っているのだから本当は「前後が逆」というのが正しい。このことは、「判りやすいことほど疑わない」への警鐘だ。僕らはいつも、「当たり前」を疑う必要があると思う。

 

方向の持つ意味は、自分の体だけではない。「前後」は進行方向や変化を示し時間とも関わる概念だし、「上下」は重力と関係し権力や苦楽など人間と深く関わる概念だ。説明の難しい「左右」でさえ「右に出る者はいない」や「左遷」など社会的な意味を持っている。英語の「right」は、「右」の他に「正しい」とか「権利(理)」という意味を持つ。本来無意味なはずの方向に、人間は様々な意味を与えてきた。それは、人によって異なる意味(人間)、そこにある複数の選択肢から選べる意味(空間)、そしてこれから目指したり改めるべき未来の意味(時間)だ。対象となる人、場所、そして時期をきちんと設定して議論しなければ、これらの選択は到底おぼつかない。だが、いずこの政党も自分に都合の良い対象者と場所と時期を設定し、どれもが「正論」を装っている。結局「だれが無難か」「だれが勝ちそうか」という、単なる追認、承認のための選挙が繰り返される。

 

でも所詮、選挙とはそんなもの。やはり選挙の結果こそが、国民の審判なのだろう。だが、日本全国で、全国民を対象とする国政が、一部の高齢者や一部の子供たちを対象に「全員に行き届かないサービス」を偉そうに「福祉」などと言っていていいのだろうか。いやむしろ、人によって地域によって様々な格差を抱える諸問題を、僕たちは国に問いかけるべきなのだろうか。その意味で、大阪から始まった「地域主権」の動きは大事な議論だ。だが、それを国政への足掛かりに利用する小池戦術には、ほとほと呆れる。東京都選出の総理大臣など欲しくない。それより東京都の自立や独立を目指すべきだと僕は思う。この「立体的な世界」に対処するため、全国の都道府県が日本政府の下請けを辞め、せめてアメリカの州政府並みの独立を目指すべきではないだろうか。