何かを人と思う力

「考えること=疑問を持つこと」を通して学ぶまつむら塾では、6つの疑問代名詞(5W1H)を使いこなす技を追及しているが、その中で最も説明しにくい言葉が「who(だれ)」だ。
「時間・空間・人間」に対応する「when・where・who」は、世界を表す3つの疑問詞と定義したものの、間という字は関係性を意味していて、「人間=human」を意味しているとは言い切れない。
辞書によれば、日本語の「だれ(誰)」は、人称代名詞不定称としての「どの人」であり、モノに対する「どれ」と呼応する言葉とされている。
そうなると、「ヒトに対するモノとは何なのか」という疑問が当然湧いてきて、どれに対応する「which」の扱いが気になってくる。
そこで僕は、5W1Hという疑問代名詞を。あくまで自分(人間)と世界の関係を表す道具と位置付けて、ヒトとモノを区別することをやめたいと思うが、もう少し説明が必要だ。

まず、ヒトとモノの区別をやめるとは、全てのモノを人(人間)と物(物体)の2面で捕らえるという意味だ。
例えば犬や猫などの動物は決して人ではないが、物とも思えない。
そこで可愛いなど感情の対象としては「ヒト」、骨格や臓器でできた生物としては「モノ」と考える。
人間もまた、社会的な人は「ヒト」、生物としての人は「モノ」として認識したいと思う。
そして、ここで言うヒトをwhoとして、モノはwhereに分類する。
空間としてのwhereは、場所や景色をイメージするが、それは内側から見た時のことであり、外側から見れば住まいも地球も物体だ。
したがって、たとえ石ころでも愛おしい対象なら「ヒト(who)」だし、物体としてなら「モノ(where)」とした。
モノに対する「どれ」は、「どこ(which)」に集約し、whichは「全ての概念に対するどれ」と位置付けた。

さて、勝手な理屈はこれくらいにして、今日の本題に移りたい。
先日まつむら塾で「犬と猫の違い」についての議論が盛り上がった。
受講生のEHさんは、4つ足動物を愛する女性で、動物と暮らせる不動産屋を目指している。
犬や猫の愛好家たちから多くの相談が寄せられるが、犬と猫ではそのライフスタイルが全く異なるだけでなく飼い主の嗜好や飼い主同士の関係も違うので、とても同じ扱いでは済まされない。
ところが、多くの不動産物件が「ペット可」の名ばかりで、愛好家たちのニーズに全く対応できていないという。
さらに言えば、「ペット」という言葉には「愛玩物や嗜好品」という意味もあり、「生きる商品」の持ち込みが許されているレベルの物件も数多い。
つまり、蛇やワニ等の爬虫類やオウムなどの鳥類に始まって、カブトムシや熱帯魚も含まれる場合がある。
こうしたペットを列挙するうちに、人間以外の家族(同居者)がきわめて多様であることに気付かされた。
さらに言えば、盆栽や石だって、家族同様に可愛がる人もいるだろう。

だが、先ほど述べた通り、まつむら塾では「人とそれ以外(物)」を区別するより、「ヒトとモノ」の両面性に着目する。
あらゆるものが、あたかもヒトのように愛情を注がれて、家族同然に大切にされている。
現に、不動産以外にも、食事、医療はもちろんのこと、宿泊や介護に至るまで、人間に劣らないサービスが存在し、その希少性から値段も高価だ。
EHさんによれば、猫の死因第2位である慢性腎臓病の治療に大きな希望をもたらす新薬「AIM製剤」が注目されていて、この新薬が使えるようになれば、これまで完治ができないといわれた慢性腎臓病も治せるようになり、猫の寿命はなんと30歳にまでなるという。
これまで12 ~ 18年と言われていた猫の寿命が1.5~2.5倍になるというから驚きだ。
おむつを付けた犬や猫を見るたびに、動物の高齢化や長寿化がもたらす社会の変化を、感じてしまう。

一方で、少子高齢化が進行する先進社会において、ペットの位置づけも変化する。
飼い主の高齢化はもちろんのことだが、体力の衰えや認知機能の低下がもたらす介護の必要性は、ペットへの対応と酷似する。
高齢者や障碍者と愛玩動物を比較するのは不謹慎と言われるかもしれないが、動物に対し人間以上の愛情を注ぐ人たちにしてみれば、通常の人間よりむしろ動物に近づいた無垢な人間の方が愛おしいと思えるかもしれない。
もちろん、そんな価値観を押しつけも推奨もする気はないが、価値観の多様化というか、大きな自然への回帰のうねりを、僕はひしひしと感じる。
世界は「人とそれ以外」で構成されているのでなく、「人とそれ以外」の2面性を持っている。
そして、世界の全てを「人と思う力」こそが、人に与えられた力であり、それを持つ者だけが人なのだと僕は思う。