今月から始まった「ニッチ大学」は、毎月第2土曜日にさくまさんちで開催する学びのイベントだ。そこでは誰もが先生になり、自分の学んだことを講義形式で発表することができる。先日、第2回目に向けた準備のため、メンバーのN大生たちと作戦会議を行なったのだが、H君から「僕は心理学や哲学に興味があり、前回“アドラー”について話をしたのですが、力不足で話がうまくまとまらず、次回以降どうしたらいいか悩んでます」と言う相談があったので、僕は学問について少し話をした。

 

そもそも学問とは、教えるためでなく学ぶための道具のはず。哲学だって、偉い哲学者の考え方を誰かに教えるためでなく、それをヒントに自分が考えるためにあるはずだ。でも、学校ではそれをきちんと説明しないから、多くの人がせっかくの学問をスポーツと勘違いして、単なる競い合う道具にしてしまっている。学問にはあらかじめ正しい答えがあり、それを素直に受け入れて、問いに応える訓練が繰り返される。だが、僕は60年生きてきて、学問がいかにいい加減で変わりやすいものかを知っている。新しい発見がなされた瞬間に、それまでの正解が間違いに変化する。そもそもそれを教えるのは、受け売りで説明する「先生」だ。そんな又聞きの情報でテストされ、その成績で評価されるのも問題だが、それで一喜一憂する学生はもっとまずい。

 

学問は、他人とは違うことをやるために、それぞれ違うことを学べるよう、人類が生み出した道具だと僕は考える。実は、「国語・算数・理科・社会」などの教科は、ほぼ世界共通だそうだ。もちろん学問の歴史は古く、優れた学問が世界に広まったためだと考えることもできるだろう。だが、これほど多様な世界において、ほぼ万国共通の教科で教育が行われているということは、この教科に人類共通の普遍性があると考えた方が自然だと思う。例えば日本における「国語」は、「日本の学校教育において、日本語および言語表現の理解、言語による表現方法の獲得などを目的として行われる教科(wiki)」と解説されるが、後半の「言語表現の理解、言語による表現方法の獲得」にある通り「言語による表現」を学ぶことがその普遍的な役割だ。だとすれば、この世界には「言語以外による表現」があるはずだ。そうだ、「美術や音楽」がまさにそれに該当する。

 

こんな調子で教科を見ていくと、その普遍的な役割が次々と見えてくる。「算数」は数学の入門編と位置付けられるが、数や図形などの抽象概念を考え作る教科だ。だとすれば、具体的に考え作るのは「技術」ではないだろうか。「社会」は歴史、政治、経済、地理など世界における人の営みについて学ぶ教科だ。それでは、世界における人以外の営みとは何かと言えば、生物、物理、化学などを扱う「理科」が考えられる。そして、「保健体育」が人体そのものの動きや健康について学ぶ教科だとすれば、人体以外の暮らしを学ぶのが「家庭科」ではないだろうか。こうして世界を「表現と言葉」、「思索と抽象」、「世界と人間」、「生活と人体」の4つに分け、それぞれについて「国語・美術」、「数学・技術」、「社会・理科」、「保健体育・家庭科」の8教科が対応しているとすれば、これはまさに人類が考え出した「学びの道具」に他ならない。

 

確かに義務教育の中学校までは、教科書に沿ってこれらを学ぶのだが、それは教科書の中身を学ぶためでなく、それらの教科の使い方を学ぶべきだと僕は思う。例えば野球の好きな子供には、野球部に入ることを大人は勧めるが、いくらまじめに練習しても試合に出られるのはごく一部で、大多数は練習と応援だけの控えの選手で終わってしまう。だがこうした野球は、極端に言えば「体育の野球」に過ぎない。僕が子供たちに言いたいのは「君は本当に苦手な体育の野球をやりたいのか、本当に興味があるのは、国語の野球や理科の野球かも知れないぞ」ということだ。実際、高校野球のマネージャーはプレイをせずに「家庭科の野球」をやっている。プロになれば、データ分析で野球を数学する人や、理科に取り組むコーチや技術に取り組む道具メーカーの開発者だっている。

 

僕は、このささやかな議論を「学問学」と名付け、機会さえあればいつも若者に説明する。学問は自分のやりたいことを学ぶための道具であり、中学卒業後は自分で教科書を作ればいい。基本8教科は、単なる初歩の入門編で、そこから自由に発展させればいい。「だから、君はアドラーの哲学を使って君自身の哲学を考えただけのこと。アドラーでもフロイトでも、自由に使って構わないよ!」と、僕はH君に説明した。すると、隣に座っていたS君が「じゃ、僕がフロイトになって議論してみたい」と言い出した。いいぞいいぞ。アドラーH君が、フロイトS君をゲストに迎えて対談する。ニッチ大学、ますます面白くなってきたぞ。