規則と常識

先日参加したシンポジウムで、「松村さんは共同体を運営する中でルール作りはどうなさっていますか?」と問われたので、「コミュニティが共有すべき目的の明文化には努めますが、その実現のためのルールは必要最低限しか定めません。」と答えた。
振り返ってみると、僕は契約書を作る時も、「その他の問題は双方の協議で定める」という条項を用いて、細かい規定は省略する。
その理由は、規則を定めてそれに従うより、協議をしてその都度決めるべきだと思うから。
つまり僕は、考えることを辞めてしまう規則やルールを忌み嫌っている。
もちろん、「誰が協議しても同じ結論になるのなら」、むしろルール化して無駄な協議を辞めるのに大賛成だし、僕は規則全般をそういうものだと理解している。
だが待てよ、「誰が議論しても同じ結論になること」とは何なのか。
それが、常識とか普通とかいうものだったら、これまた僕の嫌いな概念だ。
つまり、規則や常識は、いずれも考えないで済ませる方法なので、考えるために生きる僕の天敵だ。
でも、それを理由に、僕はこれらについて考えることを避けていないだろうか。
と言う訳で、今日は「ルールと常識」について書いてみようと思う。

例によってまずググることで、AIの「普通の説明」を聞いてみよう。
規則(ルール)とは明文化された従うべき決まりだが、常識とは社会や集団で共有される「普通」の価値観や行動様式のこと。
規則は強制力を持つが、常識は無言の合意に基づいている。
両者は社会を円滑にするための両輪だが、時代や状況によってズレが生じることもある。
規則と常識の違いは次の3つ。
・規則は文字や文書で明確に定められているが、常識は言葉にしなくても、みんなが「当たり前」と感じている。
・違反した場合、規則には罰則やペナルティがあるが、常識には罰はないが「空気が読めない」「マナー違反」とみなされる。
・規則は組織や法律など、特定の枠組みで一律に適用されるが、常識は時代、地域、文化、集団によって変わりやすい。
また、両者の関係やバランスについて、次の2点があげられる。
・すべての細かい行動を規則で縛ることはできないため、常識がその隙間を埋める補完し合う関係。
・時代の変化によって古い常識や規則が合わなくなることがあり、「規則通りだが常識的にはおかしい」「常識的だが規則違反である」という矛盾が起きる場合がある

もちろん僕は、この説明を鵜吞みにしないので、幾つかのダメ出し補足をしておこう。
まず、規則が文書であるということは、規則が常識より後にできたことを示している。
恐らく常識が曖昧だから明確にし、守られないから守らせるために罰則を設け、一律でなく変化するためにきっちり定めたのが規則なのだろう。
そう考えると、両者の関係性についてのAIの説明は適切とは言い難い。
常識が規則の隙間を埋めているのでなく、規則が常識の不備を補強している関係だし、両者に矛盾が生じるのは当然のことと言えるだろう。
むしろ、両者の違いや矛盾こそが、考えるヒントを与えてくれる大切な論点であり、今日の議論の中心かもしれない。
ひょっとすると、これまで嫌いだった規則や常識の話が好きになるかもしれないので、これまで嫌ってきた理由を考えてみよう。

初めにも書いた通り、規則や常識は考えることを阻害する。
物事の良し悪しを語る時、法律や常識を根拠にすることで、その理由を説明できないことがもどかしい。
例えば、人殺しは法律で禁じているから悪いなら、アメリカならイランの人を殺しても良いのか、人間でなく熊なら殺しても良いのかなど、答えられない問いがたくさんある。
こうした問いに対し、新たな規則を作れば良いという考えない人を生み出すことが、僕が規則や常識を嫌う根本的な原因だ。
そしてもう一つ、規則による判断は「規則に対する適否」で決まること。
あくまで規則が主体となり、自分を規則に合わせることが求められる。
たとえ急病人を病院に運ぶ時でも制限速度は破れないと思うことこそが問題で、僕ならスピード違反だけなら罰金刑で済むと考えて、猛スピードで進むだろう。
善悪には、社会が定めるものと自分自身で決める2種類あって、自分で決めるものを好悪や賛否という。
僕は、主体的な好悪や賛否のやり取りこそが人間同士の関係性なので、規則や常識、普通などそれを阻害するすべてを嫌っているのかもしれない。

一方で、国づくりにルール作りは欠かせない。
日本という国に、日本国憲法が欠かせないのと同じように、共同体の規則とは共有すべきことを明文化したものだから。
そこには必ず目的や理由が述べられて、それを実現するための方法が描かれている。
こうした共同体の規約を規則というならば、僕は規則作りが大好きだ。
なぜならそれは、考えるためにあるからだ。
共同体が賛同者を集めるためには、共同体の目的とそれを実現する方法を分かりやすく説明する必要がある。
そのためにはまず、その目的と方法を明文化(規則)することで、自分にとっての適否が判断できるし、興味を持ってくれた人から質問を受けたり、それに対する回答や改善も可能となる。
つまり、規則こそが共同体の魂で、そこから共同体の普通や常識が文化となる。
「規則と常識」は与えられるのでなく選ぶべきものと考えたい。
もしも選択肢が無ければ自分で作って選んでもらう、それを僕は国づくりと呼ぶのだろう。