所有から所属へ

2012年の5月、世田谷区の起業セミナーで、YTさん(後の笑恵館オーナー)に出会ったことをきっかけに、僕の最大の関心事は、「土地所有者の困りごと」とその裏側にある「願いや目的」となり、その実現を手伝うために「日本土地資源協会(LR)」を9月に設立した。
土地を財産として、高く売ったり誰かに譲りたい人は、僕でなく不動産屋や銀行などに相談すればいいのだが、売らずに資源として使い続けて欲しいと願う人は、是非とも僕に相談して欲しい。
YTさんの相談は土地所有者としては極めて斬新なものだったが、失礼ながら「普通のおばさん」が思いつくことならばと期待した通り、相談者だけは確実に増えてきた。
そして2021年には、様々な学びの全体を俯瞰すべく拙著「地主の学校」を発行し、活動の輪を広げたつもりだが、14年かけて着手できた事業がわずかに5か所というのが現状だ。
ほとんどすべての相談者が、話を聞くだけで行動しないのはなぜなのか。
今日は、僕自身の課題解決に、この場を使うことをお許し願いたい。

そもそも僕を尋ねて相談に来る方は、笑恵館などLRの取り組みに興味をお持ちの方々だ。
その思いが強いか、他の選択肢が無ければ、少なくとも具体的な準備に着手するだろう。
だが、大多数の方がそうならないのは、多忙で優先順位が低いのか、他の選択肢と迷っているのかどちらかだ。
いずれにせよ、困りごとの全体像をお聞きできていない自分の力不足によるものだ。
今後は、たとえ初対面の方とでも、解決したビジョンを語り合うように心がけたい。
解決のイメージを共有できれば、僕自身がお手伝いすべきか、別の協力者を探すべきかもアドバイスできる。
問題は、解決のイメージが無い場合、つまり土地所有の責任やストレスから解放されたい場合だろう。
僕に相談すれば、何とかしてくれると思ったのに、「松村はあくまで手伝いで、やるのはあなた自身ですよ」では当てにできない。
でも、空き家や放棄地などの「放置」が増えているのは、魅力的な選択肢がないためだと思う。

余談だが、これまでは「売却」こそが最大の敵だと思っていたが、この頃そうでもない気がしてる。
そもそも「売却」のメリットは、それを目的とする人にだけのもので、社会全体にとってはあまり意味がない
土地を含む物価の高騰はその売り手の売上が増えるだけで、買い手にはデメリットだ。
土地の値上がりに至っては、評価額も連動するため、売らない人の固都税が上がり、得をするのは自治体だ。
また、賃貸についても同様で、誰かが入居すれば、その人が住んでいた住居が空き家になる。
自分の得は相手の損である限り、損得勘定からは何も生まれない。
この不平等を打破するためには、損得の価値観を多様化し、双方が得をするようにするしかない。
これこそが、多様性が欠かせない理由だと僕は思う。

話を本題に戻そう。
土地所有者の究極の選択肢は、所有者で「あり続ける」か「やめる」かだ。
所有者の辞め方として考えられるのは、誰かに地位を譲ることであり、その代表例が所有物の売却だ。
多くの場合、労無くして対価を得ることができるので、多忙な方やものぐさな方には最適だし、代金は手切れ金としても十分に機能する。
それに比べて。僕の提案する国づくりは、夢を語れだの、仲間を募れだの、やることばかり大変で、その見返りはうやむやで判然としない。
そんな見方で比べたら、国づくりに挑もうなどと思うはずがない。
所有者の苦しみから逃れたいのに、さらなる苦しみを背負いたい人などいる訳ない。
それではなぜ、僕は国づくりを強く推奨するのだろう。
自分の胸に、当の昔に出ているはずの簡単な答えを聞いてみた。
それは「所有」を辞めること。

「地主の学校」の執筆を通して最大の発見は「所有」と言う概念の位置づけだ。
「所有」と言う言葉は、明治時代に入ってきた英語の「Ownership」の訳語で、江戸時代以前の用例は見つからない。
それ以前「所有」の読みは「あらゆる」で、「所謂(いわゆる)」の類語だったと考えられる。
僕は書中でこのことに言及し、「日本には所有の概念は存在しなかった」と決めつけた。
これに代わる概念として「主」があり、「地主」は「土地の所有者」を意味している。
だからこそ、「民主」とは「民(みんな)が主になる」ことのはずだから、 
だが、西洋における「所有」は、土地に属するすべてを支配する独占権なので、そこで働く人々は奴隷として売買された。
日本では土地は年貢のノルマとして使用者(耕作者)に割り当てられ、地主は年貢を取り立てる管理者として位置づけられた。
つまり、日本では御上(天皇)から任命された領主や地主が、預かった土地を管理(知行)する仕組みが当初から確立していたため、「所有」の概念が不要だったのかもしれない。
そして、これこそが日本を世界一長寿な国にしたのかもしれない。

我ら日本人は、日本と言う国に所属して、それぞれが与えられた役割やノルマをこなしてきた。
実は当の昔に国の象徴となった天皇を、明治政府が欧米の真似をして王に担いだに過ぎず、実際の政治や戦争は、政府や軍のやりたい放題だったと思われる。
それに気づいたマッカーサーは、天皇を平和の象徴に戻し、天皇もこれを快諾して平和憲法が制定された。
もちろんこれは、独断と偏見で勝手に描いたストーリーだが、僕はこれが大好きだし、むしろ世界に自慢したい。
僕はこの日本から平和な世界を作るには、日本を平和な世界に見立て、その中で様々な小さな国をつくれば良いと気が付いた。
「小さな」とは、「日本より小さな」という意味で、日本全体を意味しないし、数もどんなに多くても構わない。
肝心なのは、価値観を統一せず、誰も損しない世界を目指すこと。
そのために少なくとも土地に関しては、かつての日本のように所有の概念は必要なく、誰もが所属すればいい。
つまり、所有者は自分の土地の所属メンバー第1号になり、所属する仲間を募ればいい。

先回、世界に広がるコミュニティランドトラストがなぜ普及しないのかという疑問から、日本の特殊性に気づいたが、今日はそれが所有という概念を持たない特殊性につながった。
「地主の学校」では、「所有の復権」を模索したが、どうやらそうではなく「所属への移行」」こそが原点回帰の道なのかもしれない。
誰か一人に所属する(支配される)のでなく、独自の目的に主体的に所属することこそが、民主主義の国づくりだと思う。
イメージはかなり明確になったので、次回は言葉の整理かな。