うぬぼれの涙

映画「マイケル」を観て、僕は終始泣いていた。
もちろんジャクソンファイヴに始まって、リアルタイムで接した数々の楽曲に、身体が反応したのは言うまでもないことだが、それにしても要所要所で湧き出る涙は、郷愁の思いでは済まされない。
嗚咽を堪えながら、「なぜ泣けるんだろう?」と疑問を感じる自分に対し、「今は映画に集中して、後でゆっくり考えよう」と言い聞かせた。
ひょっとして、悲しい結末を想起していたのかと思ったが、幸い映画は1987年の初のソロツアーと言う絶頂期で終わったので、意味不明な晩年や、悲惨な最期を診ずに済んだ。
ところが、エンディングの歌声を聞きながら、こみ上げる涙は止まらなかった。
そこで、あえて映画を振り返り、涙の原因を考察したい。

心に残った場面と言うか、エピソードをあげてみよう。
まず初めに驚いたのは幼いマイケルが父親から皮ベルトで鞭打たれる折檻(せっかん)だ。
毒親による愛のむちと非難するのはたやすいが、マイケルの成長に欠かせない必要悪であることは否めない。
ジャクソン家の成功とともに、父親の専制はさらにエスカレートして、マイケルとの確執に変化するが、それもマイケルの自立心を育む原動力となり、父との愛ある決別が、真のスタートとして美しく描かれる。
こうした父との関係に敏感なのは、もちろん僕自身の体験に由来する。
父の指示で市立中学の受験をし、父から逃れるために東大に潜り込み、結局父の会社に就職し、社長を引き継いだ途端に倒産し、父と決別することで会社を再建した。
だが、それで涙が出るとは思えない。

父との確執はあったものの、幼いマイケルは間違いなく成功した。
そして、一躍有名人になったマイケルを、友達の居ない孤独が待ち受けていた。
人間の友達を持てないマイケルにとって、キリンやチンパンジーなど動物はペットでなくむしろ友達や家族だった。
そんなマイケルに対し、母キャサリンは彼が「特別な存在」であると伝え、自信の光で輝きなさいと繰り返し諭していく。
この母からの祝福と励ましの言葉をきっかけに、マイケルのステージ上でのパフォーマンスは別次元へと進化し、輝きを増していく。
やがて、父からの自立を超えて、あらゆる差別や偏見を打破するために、どん欲に成功を追求しつつも、大やけどで入院した病院に補償金をすべて寄付するなど、世界中の人々や恵まれない子供たちへの無償の愛を抱くようになり、孤独もまた、独自性の源泉として描かれている。

僕にとって、いや多くの人たちにとって、マイケルジャクソンは超越した存在に違いない。
それは例えば、ドジャースの大谷翔平のような、ファンはもちろんのこと、同僚やライバルからも一目も二目も置かれる存在だ。
彼らが超越した存在になる瞬間を目撃することこそが、強烈な感動を得る瞬間だ。
たとえどんなに素晴らしい映画でも、マイケルジャクソンを知らない人が僕のように感動できるかはわからない。
この映画にちりばめられたマイケル超越の瞬間を、リアルタイムで見聞きした僕だからこそ、感動がこみあげてくるのは分かる。
だが、その感動と涙の関係が分からない。
その証拠に、大谷翔平がどんなすごい記録を作っても、感動はするけど涙は出ない。
まてよ、それこそが問題だ。
マイケルジャクソンと大谷翔平の違いは一体何だろう。

その答えは簡単で、僕と同じかどうかの問題だ。
僕と大谷翔平の間には、何の共通点も思いつかないが、僕とマイケルジャクソンの共通点なら枚挙にいとまがない。
僕は野球はやらないが、音楽はバンドを作ってプロを目指したこともあった。
大谷の試合に行ったことはないが、マイケルジャクソンのBADコンサートには、カミさんと当時3歳の息子が駆け付けた。
父との確執や、母からの擁護はもちろんのこと、世界平和や環境問題への関心も共感できる。
つまり、マイケルジャクソンには自分を重ねることができたので、共感の涙が止まらなかったと考えるのが、一番納得できる解釈に思えてきた。
でも待てよ、これって飛んでもない「うぬぼれ」だよね。
映画を観た感想が「マイケルの喜びや悲しみが自分のことのように思えて、涙が止まらなかった」なんて、図々しいにも程がある。
でも、それが本音の本心なので、これを「うぬぼれの涙」と名付けよう。
マイケルが困難を打破した方法や新たな世界を見出したきっかけは、僕の困難や新境地にも応用できそうな予感がする。
そんな喜びと興奮が、涙をあふれさせたに違いない。