仕事と生業

今、農業への関心が高まっている。
一昨年突然コメ不足が発覚し米価格が2倍に跳ね上がり、昨年は様々な対策もむなしく米価の高止まりが続いたが、今年は過去の米不足問題は解消され、むしろ豊作と増産による「コメ余り」と価格下落が起きているという。
さらには、アメリカのイラン攻撃が招いた石油危機がすべての石油製品不足を招き、これまでわき役だった梱包・包装材の変化に社会は混乱している。
例えば、物価の優等生と言われる納豆は価格の8割は梱包材なので、容器の値上げは商品の価格に直結する。
こうして、スーパーで買う食品は、農産物と梱包材の双方に加え、その輸送に必要なガソリン代、冷蔵に必要な電気代など、不安材料の塊に見えてくる。
もちろんそれはお金に関することで、生きるために必要なお金を稼ぎ続けられるのかという不安だろう。
そもそもお金は、他人に何かを頼むサービス券なので、貨幣経済の発達は人任せの増加を意味している。
今や、考えることまでAI任せにするようになり、自分自身がなすべきことは何なのか。
そんな原点回帰的な思いが、人々を農業に向かわせているように思う。

もちろん僕の言う「農業」とは、「仕事としての農」でなく「生業(なりわい)としての農」を指す。
乱暴な言い方だが、仕事とは他人のためにやることで、生業とは自分のためにやることだ。
お金を稼ぐには誰かのために働いて対価を得る必要があるが、生きるためなら自分で食べ物を調達すればいい。
自分で魚を採ったり野菜を作れば食べられるし、食べきれなければ人にあげたり交換すればいい。
つまり、「農業」を「農産業」と「農作業」に分けた、後者のようなイメージだ。
ちなみに、一般的に「農業」が意味する「農産業」は、農作業から流通販売して収益を得ることを指す。
僕が以前訪問したブランド米を生産する農業法人は、社員10人の内農作業担当はわずか1.5人で、残りは企画、営業、梱包、流通、広報、会計、総務などのスタッフだ。
彼らの人件費だけでも4千万円以上となるので、その他の原価や経費を加えると、1億円を軽く超える。
つまり、1.5人の農作業者が生きていくために1億以上の売上が必要となる、それが農産業の実態だ。

だとすると、僕らがイメージする農家は、本当に農を仕事(農産業)にするプロフェッショナルなのだろうか。
もちろんアマチュアだなどと言う気はないが、業としての農を営んでいるとは考えにくい。
かつて年貢を納めたころは、農作物そのものがお金だったので、販売による監禁の手間は無く、そのまま納めればよかった。
だが、貨幣経済に移行すると、農産物は1次産品となり、加工を施す2次産業が成長し、流通販売を担う3次産業へと主導権が移っていった。
その後、情報化が世界をつなぎ、AI化が省人間化を加速する。
少子高齢化に伴う人口減少が招く人手不足を、ロボットが解消するならば、いよいよ世界は人間を必要としなくなるだろう。
必要とされなくなった人間は、一体どうやって生きていくのか。
僕は、自分の求めに応える自分となって、自分のために生きることを選びたいし、お誘いしたい。

こうして、「農業」への回帰は、産業と決別した生業を意味する「農」に向かうことになる。
食べるために、お金を稼ぐのでなく食べ物を作るのは、広い意味で、1次産業への回帰と言えるかもしれない。
農薬や化学肥料を使わないのは健康に悪いからでなく、お金で買いたくないからだ。
身近な自然から入手したり作れるなら、農薬も肥料も大歓迎だ。
その理屈で言えば、種を購入する農業など最悪で、種づくり、土づくりから始める必要がある。
かつて農民は、米や野菜と引き換えに糞尿を買い取り、船で村まで持ち帰って肥料として活用するという、高度な循環型社会が成立していた。
江戸時代後期の江戸が、欧米列強の諸都市をしのぐ、人口100万人の世界最大の都市であったことは、この社会構造の優越性を見事に物語っている。
僕たちが今、見習うべきはどの時代の何なのかを、「農」は様々教えてくれる。
そこで僕は、「NPO法人せたがや喜多見農とみどり」の事務局長を快諾した。
https://land-resource.org/agreen/
先日のブラタモリで紹介された成城の元となった喜多見とは、なんと喜多見藩(きたみはん)という、武蔵国江戸氏(後の喜多見氏)を藩主とした大名家だった。
今日はここまで、続きはいずれ国づくりの話としてお楽しみに。