「NPO法人せたがや喜多見農とみどり」は、せたがや喜多見及びその周辺に暮らす一般市民を対象として、都市生活における農(農耕作業)とみどり(植物資源)の重要性に関する調査研究や普及啓発と、その保全や維持に取り組む人々との交流や支援活動を通じて. 永続的に活用される緑地を確保する先例となることで、安全で心豊かなまちづくりに寄与することを目的とする。
僕は、この法人の体制整備を依頼され、昨年11月より月額1万円で事務局長を引き受けた。
そして、上記の事業目的を理事長BT氏と練り上げて、まさにせたがや喜多見地域での国づくりを全力でサポートする。
先日、その一環として開催された「第1回農とみどりシンポジウム」で閉会の挨拶を頼まれたので、もちろん僕は快諾・参加して、核心部分を聞き逃すまいと講師の話に耳を傾けた。
すると、僕の目指す理想的な国づくりが、まさに目の前で実現していたことに気が付いた。
もちろん、僕の閉会挨拶は、その実現をみんなで引き継ごうとなったのは言うまでもない。
そこで今日は、その話をあなたにも是非お伝えしたいので、お付き合い願いたい。
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今回シンポジウムは「歴史・農・緑から成城・喜多見を考える」という副題の通り、当法人の活動エリアである「喜多見」と隣町の「成城」との関わりから、我々の国づくりが拘る「都市農業」について考える。
そこで、成城学園教育研究所のTAさんと、一橋大学で社会学を研究するRKさんを講師に招き、この町のこれまでとこれからについて、語っていただいた。
お二人の講義はzoomを使って録画したので、下記のリンクからご覧いただけるが、今日の話はその本題でなく、TAさんから語られた成城という町の成り立ちがあまりにも衝撃的な話だったこと。
https://land-resource.org/agreen/260402-2/#01
なんと、成城学園の学校と父兄そして地域住民の3者が、自分たちの力で町を創ったと言う。
あえて「創った」という言葉にしたことが、今日の話の核心だ。
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成城の始まりは、1925(大正14)年に新宿区牛込から現在地(世田谷区)に移転してきた「成城学園」による学園都市開発だ。
1917年、新宿の成城学園内に成城小学校を創設した澤柳政太郎は、自然と親しむ、個性の尊重など100年前当時としては画期的な理念を掲げ、「実験(経験を重視する)学校」を創出した。
全国から優秀な教育者が参集し、成城小学校に勤務して切磋した教育者たちが、玉川学園、明星学園、和光学園そしてトットちゃんでお馴染みのトモエ学園などを設立した。
入学した子供の父兄には、平塚らいてう、柳田邦男、武者小路実篤などそうそうたる文化人が名を連ね、小学校の卒業生を受け入れる理想の学校を作るため、郊外移転は1925年がリミットとされた。
だが、小田急線未開通なので、関係者の住まいが必要となり、財閥や資産家の支配と支援を受けないためにも、学校の資金調達も兼ねて住宅分譲を企てる。
そして喜多見村の高台部分の地主と直接交渉し、小原國芳と父兄有志たちが分譲した土地に学校と住宅地が一体となった「理想の学園都市」が実現した。
これらがどの程度「初めて」だったのか、周囲の状況を俯瞰してみよう。
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まず、郊外住宅地の誕生については、1910年(明治43年)に小林一三(箕面有馬電軌、現在の阪急)が大阪の池田に室町住宅地を開発したのが、鉄道沿線不動産開発(鉄道が先)の先駆けとされている。
一方、1918年には理想的な住宅地「田園都市」開発を目的に田園都市株式会社が実業家渋沢栄一らによって立ち上げられ、現在の東急・東急電鉄・東急不動産の元になる。
1922年に目黒区、品川区にまたがる洗足田園都市(現在の洗足地域)、 翌年大田区、世田谷区にまたがる多摩川台地区(現在の田園調布、玉川田園調布)の分譲を開始し、またその地の足の便の確保のため子会社により鉄道事業を営んだ。
成城学園が宅地開発を始めた1922年は、まさにこうした分譲地販売の草創期に当たり、小田急電鉄は1023年に設立し1927年に全線開通する。
まさに、鉄道がないために作られた住宅地と言う意味で、学園関係者のためのまちとして誕生する。
一方、1924年(大正13年)に箱根土地(後のコクド。現在のプリンスホテル)が武蔵野鉄道沿線の東京府北豊島郡大泉村に大泉学園都市の分譲を開始したが、そこに学園は存在せず「幻の学園都市」と言われている。
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次に、上記のような開発事業者が介在しない「まちづくり」についても検証したい。
TAさんの解説によれば、成城の宅地開発は「学園関係者」と「喜多見土地区画整理組合(喜多見地区の地主)」の共同作業で行われ、「学校関係者」としては、教師「小原國芳(後の玉川学園創始者)」のリーダーシップの下、全父兄が参加する講演会の有志による「地所部」が「喜多見土地区画整理組合」の全事業を受託(丸投げ)した。
つまり、ど素人集団による「まちづくり」が行われたことになる。
一方、「まちづくり」と言う言葉は、1960〜70年代の過疎化や歴史的景観の破壊に対する住民運動(保存運動)をルーツとし、1980年代の地区計画制度導入により法制度が整備され、行政主導から住民参加・ボトムアップの活動へと転換した。
住民が主体となるか、あるいは住民と行政の協議によるものを指し、行政が一方的に意思決定しその結果を住民に押し付けるようなものはまちづくりとは呼ばれない。
また、「まち」と「つくる」を組み合わせた造語だが、新たに街・町を建設するようなことは指さず、TAさんの言う「メンテナンス」的な意味合いだ。
このように、成城におけるまちづくりは、世間でいうまちづくりより30年以上前から始まった営みだ。
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こうした経緯を語る中で、講師のTAさんが「稀有な」、「たまたま」、「結果として」などの言葉を多用するのを聞くうちに、僕の違和感が爆発した。
澤柳政太郎が高い理想を掲げたから、優秀な教師が集まったのであって、それはたまたまでなく必然だ。
高い理想に優秀な教師が集まったから、文化人が子弟を入学させたのでなく、高い理想と教育を重視することこそが文化なのだ。
そして、珍しいからではなくて、新しいから稀有なのだ。
初めてのチャレンジに、プロもベテランも存在しない、誰もがど素人なのは当然だ。
以前、ユナイテッドスクールオブトーキョーというインターナショナルスクールの中学校設立を手伝ったとき、学校設立時の支援者子弟が小学校を卒業する時をリミットに奔走したのを思い出す。
稀有な結果がたまたま残ったんじゃなく、残したいと思って残したことを忘れてはいけない。
TAさんが、最後に語った「100年前に比べれば、今の方がずっとやりやすい。」と言う言葉に、すべてが含まれている。
「思うこと」こそ「始めること」だと僕は確信する
できるかどうかなど考えず、まずはやってからその結果を発信したい。