違和感とは、調和が取れていない、しっくりこない、合わないと感じる状態や感覚のこと。
様々な対象に対して抱く感情だが、その主体は「自分自身」のはず。
つまり、自分と調和がとれてるか、自分にしっくりくるか、自分に合ってるかと考えたときに、そうでない時に生まれる感情だ。
だとすると、もしもあなたがすべてに対し、違和感の有無を確認すれば、世界は違和感を感じるものとそうでないものに分類できる。
なぜいきなりこんな話から始めたか、それは、まさに僕がそうしてるから。
今日は、僕の大好きな「違和感」についてお話ししたい。
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はじめに述べたとおり、違和感は何にでも使える超便利な言葉だ。
「自分が求める何かとの違和」なのだから、「求める何か」をはっきりさせれば解決するはずなのに、それを言わずに「違和」だけ言えば済んでしまうので、とりあえず言うには最適だ。
だが多くの人は、自分との違和でなく周囲の雰囲気との違和を指摘したり、周囲との違和感を生まないようにふるまったりと、空気を読むのに余念がない。
もしもその違和を周囲から指摘されたら、なるほどと言ってすぐに撤回すれば済むことだ。
あたかも誤解を解くように、違和感も話し合いや確認によって解消すべきコトにされているような気がする。
だが、まさにそこにこそ僕は大きな違和感を感じてしまう。
なぜ多くの人は、違和感を大切にしないのか、と僕は強く感じている。
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僕にとっての違和感とは、「いつもと違うことに気づく瞬間」のことなので、正確に言うと「異常感」かもしれない。
呼吸や瞬きなど、いつもと同じ事なら何も感じずに受け流すが、いつもと違うことに出会ったときは必ず一瞬立ち止まり、「違和かそうでないか」を確認している。
つまり、新たな物事に出会ったときではなく、5感を通したすべての出会いが新しい(未知)かそうでない(既知)かを確認し、新たな出会いはすべて確認するように努めている。
僕はよく「遠くを見てる」とか「また何か考えてる」とか言われるのは、きっとそのせいだと思う。
そして「違和」の確認は瞬時に終わり、多くの場合は類似の体験を思い出して解消されるのだが、時々「んん?」と引っかかることに出会うといったん口に出して言葉にし、記憶するかメモを残す。
僕にとっての違和感は、すべてが「自分の世界に対する反応」なので、どんなに偉い人の教えより大切だと確信する。
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僕が42歳で経験した会社の倒産を自分の出発点だと自負するのは、当時感じた違和感が自分の道を切り開いてくれたから。
運転資金がショートして経営破綻を覚悟したときに、「会社の潰し方」に関する参考書を買ってきて欲しいとカミさんに頼んだところ、「会社を潰さないための本」しかないとの連絡を受けた時、僕は大いなる違和感を感じた。
そして即座に、ビジネスの成功者はごく一部で大多数の人は失敗しているのに、なぜ「失敗ノウハウ」の情報がないのだろう、と違和感は具体化し、僕は「いい失敗」に挑戦したくなった。
こうして僕は、違和感こそが自分の思いを知る手がかりだと気づき、その後はむしろ違和感をむさぼるようになっていった。
違和感に説明などいらないように、自分の思いに理由など必要ない。
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考えてみれば、違和感とは自分の道を踏み外さないように供えられた警報ブザーのようなもの。
自分が何をしたいのか、自分探しにさ迷う人が多いけど、自分に合わないことやしたくないことに対しては違和感ブザーが働いてくれる。
残念ながら、自分の道は誰も教えてくれないが、自分の道から外れそうになると違和感という警報が教えてくれる。
だから、自分の道や夢を知りたければ新たな道をどんどん歩いて違和感ブザーを鳴らすしかない。
旅とはまさにそのための作業なので、知らないところに行き、知らないものを見て、知らない人に会うべきだ。
違和感をたくさん感じることで、「感じる主体=自分」に出会うことができるはず。
そして、その時には「これだ!」と、自分だけでなく周囲の人にも感じてもらえることを、これまで何度も経験した。
これ本当なので、信じて欲しい。
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