多いと重い

メゾンふきに二人の新メンバーを迎え、その引っ越しに立ち会いながら、ふと気が付いたことがある。
それは、彼らがスーツケース一つで身軽なこと。
僕もかなり断捨離したつもりだったが、さすがにスーツケース一つとまではいかなかった。
もちろん彼らの到着後には、宅急便で段ボール2つとか追加の荷物が届いたが、なんとその中にエアベッドまで入っていて、身軽なことに違いはない。
考えてみれば、ここはいわゆるシェアハウスなので、家具や家電などの生活什器はそろっていて、長期滞在型の宿泊施設とも言える。
おそらく彼らには実家があって、日常生活に不要なものはすべてそこに置いてあるのだろう。

それに対し、僕の場合は家族と暮らした家(実家)を3年前に引き払い、自分の所有物すべてを持って家を出た。
もちろん家出ではないし、離婚や一家離散でもないけれど、夫婦が自由な独居にチャレンジする引っ越しだった。
はじめは職場(笑恵館)に住み込みで働くと解釈し、食事は近所の日楽庵(母妹宅)に通っていたが、昨年の2月から初めて自炊を開始して、初の一人暮らしが実現した。
やがて、求められる土地資源に住み込んで、その利活用に取り組むことこそが僕の使命に思えてきて、5月には住民票は笑恵館に置いたまま、今のメゾンふきに転居した。
昨年秋の改修工事中は、着替えだけ持って日楽庵に居候したが、年末にはメゾンふきに帰宅して、今に至っている。

こんな状況を振り返ると、今の僕にはしばらく居候した日楽庵(母の居る家)の方がシェアハウス的存在だ。
もしも「帰るべき家」を実家と呼ぶならば、自分の所有物の置き場所こそが「必要なものを取りに帰るべき家」なのは間違いない。
その意味では、メゾンふきは僕にとっての実家であり、むしろ住人に掃除機などの備品を貸し出すオーナー側の存在として、新メンバーを出迎えた。
そして身軽な彼らを見て、僕が感じる自分の重さとは、一部分の軽さに対する全部の重さだと気が付いた。
僕は断捨離の結果、すべての所有物を2トントラックで運び、6帖一間に収められるが、それは量を減らしたにすぎず、シェアメンバーたちの身軽さとは意味が違う。
どうやら今日は「多い・少ない」と「重い・軽い」がどういう関係なのか、という疑問に気づいてしまったようなので、少し掘り下げてみたい。

「多い・少ない」は数値化することで比較可能だが、「重い・軽い」は数値化できないのかもしれない。
もちろん重さの数値化は可能だが、それは単位を決めて質量を測る手段にすぎず、「質量が大きいこと」を「重い」と呼んでいるにすぎない。
これに対し、今日の話の発端となった「身軽」という言葉は、荷物が軽いことだけを指すわけではない。
先ほど述べたような、所有物のすべてを必要としない、部分的とか一時的など、計測できない「軽さ」が感じられる。

そこで「重い」を辞書で引いてみると・・・
1 目方が多い。力を入れないとそのものを支えたり動かしたりできない。
2 動きが鈍い。動作がてきぱきとしない。
3 心が晴れ晴れとしない。気分がさっぱりしない。
4 物事の程度がはなはだしい。
5 味が濃厚である。量が多く食べごたえがある。
6 競馬で、競走馬の体重が理想体重より多い。また、馬場の状態が降雨などで悪い。
7 囲碁で、石の手割り上の価値が大きく、捨てにくい。
8 将棋で、駒の働きが重複している。
9 コンピューターの動作が遅い。
10 態度・性質に軽率なところがない。重厚である。
と、たとえ数値できたとしても、その様々な意味を表現する意味深な言葉だとわかる。

そこで最後に、計測可能な重さについて、もう少し考えてみたい。
先ほどの「全部は部分より重い」は、一見正しそうだが、ヘリウムガスの入った風船の束ならば、「全体は部分より軽い」となる。
だが、この場合浮力の強いほうが重いものを持ち上げられるので、全体のほうが重いものを持ち上げられることになる。
「一票の格差」とは、地域の重さが平等なら、その住民が多いほど一人の重さは軽くなるという問題だ。
それが不満なら、都会から田舎に引っ越せば良いのに、田舎の区画を広げて都会の区画を細切れにしているのは、社会の重さを票数で測っているにすぎない。
むしろ僕は、都会に暮らす人より田舎に暮らす人のほうが重いとはっきり言うべきだと思う。
そして、財産の一部を持参する入居者の方が、全財産を持ち込んで暮らす僕よりも身軽だという理屈は、たとえ僕がホームレスになろうとも、変えるつもりはない。
多いことと重いことの違いを、今日は理解できた気がする。

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